とは何か」──この説明をして先に進みたいと思います。
総督府とは総督のいる場所をあらわします。総督とは正式には
「東征大総督」といい、鳥羽・伏見の戦いで設置された征討大将
軍職が廃止されたので、その代りに新政府が設置した役職です。
東征大総督とは、幕末期に旧江戸幕府軍勢力制圧のために明治
新政府が設置した臨時の軍司令官のことです。有栖川宮幟仁親王
は、新政府の総裁に任命されていましたが、朝廷は有栖川宮幟仁
親王を総裁在任のまま東征大総督に任命し、先行して設置されて
いた東海道、東山道、北陸道の鎮撫使を改めて、先鋒総督兼鎮撫
使として東征大総督府の指揮下に置いたのです。
総督府といわれているものには次の6つがあります。それぞれ
の総督を記載しておきます。
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東征大総督府 ・・・・・ 有栖川宮幟仁親王
奥羽鎮撫総督府 ・・・・・ 九条道孝
北陸道鎮撫総督府 ・・・・・ 高倉三位(永祐)
東山道鎮撫総督府 ・・・・・ 岩倉大夫(具定)
東海道鎮撫総督府 ・・・・・ 橋本少将(実梁)
海軍総督府 ・・・・・ 大原侍従(俊実)
http://www.eonet.ne.jp/~kazusin/meibo/sotokufu.htm
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それでは、西郷隆盛という人はどういう地位に就いていたので
しょうか。西郷の役職は次の通りです。
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西郷吉之介 東征大総督府/下参謀
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東征大総督府の参謀には「上参謀」と「下参謀」があり、西郷
はトップの有栖川宮幟仁親王から数えて4番目に当ります。
この中で江戸を担当する東海道鎮撫総督府のトップにどういう
人物がいたかを調べてみると、次のようになります。
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東海道鎮撫総督府
総督 ・・・・・ 橋本少将(実梁)
副総督 ・・・・・ 柳原侍従(前光)
参謀 ・・・・・ 木梨精一郎/海江田信義
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この中で実務を仕切っていたのは、参謀の木梨精一郎と海江田
信義の2人なのですが、彼らはどちらかというと、旧幕府寄りの
姿勢であり、勝海舟や大久保一翁とはうまくやっていこうとする
一派なのです。勝の巧妙な工作によって取りこまれた連中といっ
てよいと思います。
しかし、彰義隊が結成され、慶喜が水戸に行ったあとも上野寛
永寺に居座り、江戸に駐留する新政府軍の兵士たちとのトラブル
が頻発するに及んで、中央政権の明治新政府は東海道鎮撫総督府
に対して強い不信感を募らせるようになったのです。
とくに彰義隊から渋沢成一郎が去ってからというものは、彰義
隊の横暴は目に余るものがあり、これは勝海舟の策略ではないか
と新政権はますます懸念するようになったのです。
そのときの彰義隊の隊員は、慶応4年(1868年)2月17
日に円応寺に集まった幕臣や元幕臣ではなく、旧幕府とは何の関
係もない者たちが隊の多数を占めるようになっていたのです。し
かも人数はさらに増えて、総勢3000人を超えるまでに膨張し
ていたのです。
どうしてこのように彰義隊に人が集まったのかというと、「実
にけしからぬ料見」を持っていたからという説を唱える人もいま
す。その「料見」とは、その頃朝廷が旧幕府に関八州を与えると
いう風評が流れており、彰義隊の人たちはそれを自分たちの行動
の成果だと信じていたというものです。実際にはそんなことがあ
るはずもなく、勝手に夢を膨らませていただけだったのです。渋
沢成一郎は彰義隊のこうした状況を見て、離隊を決意したといわ
れています。
新政権が彰義隊に対していまひとつ攻めあぐんでいたのは、彼
らが寛永寺貫主・輪王寺宮を奉じていたことです。輪王寺宮は、
伏見宮邦家親王の第9王子で、後の北白川宮能久親王です。
輪王寺というのは、日光市にある寺院であり、天台宗の門跡寺
院です。創建は奈良時代であり、近世には徳川家の庇護を受けて
繁栄を極めたのです。もともと「日光山」と呼ばれていた「二社
一寺」であり、東照宮、二荒山神社、輪王寺の3つです。北白川
宮能久親王は最後の輪王寺宮なのです。「輪王寺」は日光山中に
ある寺院群の総称なのです。東照宮は徳川家康を「東照大権現」
という「神」として祀る神社として有名であり、日光は徳川家と
深い縁があるのです。
北白川宮能久親王は、慶応3年(1867年)5月に江戸に下
り、寛永寺貫主・輪王寺門跡を継いだのです。輪王寺宮は、慶応
4年(1868年)3月に旧幕府の依頼を受けて駿府に赴き、有
栖川宮幟仁親王と会い、慶喜の助命嘆願と東征軍の進軍停止を求
めたのです。
しかし、助命については条件を示されたものの東征中止は熾仁
親王に一蹴されてしまったのです。その対応はとても同じ皇族に
対するものではなく、輪王寺宮に随行していた側近の輪王寺執当
覚王院義観は非常に憤っていたといわれます。
天野八郎を頭取としながも、この覚王院義観なる人物が事実上
彰義隊を仕切っていたといえるのです。さらに新政権があまり強
く出られない背景には、朝敵とされて新政府に敵対する会津藩や
庄内藩と、それに両藩に対して同情的な東北諸藩が彰義隊と呼応
しかねない情勢にあったからです。そうなると、新政府軍として
も容易ならざる勢力になってしまうのです。
―――─ [明治維新について考える/34]
≪画像および関連情報≫
●「日光山」について
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日光山内の社寺は、東照宮、二荒山神社、輪王寺の3つに分
かれ、これらを総称して「二社一寺」と呼ばれている。なか
でも東照宮は、徳川家康を「東照大権現」という「神」とし
て祀る神社である。一方、二荒山神社と輪王寺は奈良時代に
山岳信仰の社寺として創建されたもので、東照宮よりはるか
に長い歴史をもっている。ただし、「二社一寺」がこのよう
に明確に分離するのは明治初年の神仏分離令令以後のことで
あり、近世以前には、山内の仏堂、神社、霊廟等をすべて含
めて「日光山」あるいは「日光三所権現」と称し、神仏習合
の信仰が行われていた。 ──ウィキペディア
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●写真出典/ウィキペディア「北白川宮能久親王」
北白川宮能久親王



『この中で実務を仕切っていたのは、参謀の木梨精一郎と海江田信義の2人なのですが、彼らはどちらかというと、旧幕府寄りの姿勢であり、勝海舟や大久保一翁とはうまくやっていこうとする一派なのです。勝の巧妙な工作によって取りこまれた連中といってよいと思います。』とありますが、精一郎が旧幕府寄りであったという根拠となる史料はどのようなものがあるのでしょうかか?ご教示頂ければ幸いです。よろしくお願い致します。
『この中で実務を仕切っていたのは、参謀の木梨精一郎と海江田信義の2人なのですが、彼らはどちらかというと、旧幕府寄りの姿勢であり、勝海舟や大久保一翁とはうまくやっていこうとする一派なのです。勝の巧妙な工作によって取りこまれた連中といってよいと思います。』とありますが、精一郎が旧幕府寄りであったという根拠となる史料はどのようなものがあるのでしょうかか?ご教示頂ければ幸いです。宜しくお願いします。