2011年03月25日

●「彰義隊の発足と渋沢成一郎」(EJ第3023号)

 江戸城開城後もいろいろなことが起こったのです。徳川慶喜が
江戸城を出て上野寛永寺で謹慎に入ったのは、慶応4年(186
8年)2月12日のことです。
 これに不満を持った幕臣の本多敏三郎と伴門五郎が中心になっ
て有志への会合を呼びかけたのです。この呼びかけに応えて2月
12日に雑司ケ谷の酒楼「茗荷屋」に一橋家ゆかりの者が17名
集まったのです。
 12日の会合では、慶喜の復権や助命が話し合われたのです。
この動きは次第に拡大していくのです。2月17日には円応寺で
第2回目の会合が行われ、30名が集まっています。
 2月21日には、一橋家に仕える幕臣の渋沢成一郎を招き、諸
藩の藩士や旧幕府を支持する志士が集まったのです。ここで単な
る会合は組織化され「尊王恭順有志会」が結成されます。ちなみ
に渋沢成一郎は、あの渋沢栄一の親戚に当ります。
 2月23日に会の結成式が浅草の東本願寺で行われ、会の名称
を次のように決めたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
     大義を彰(あきら)かにする → 彰義隊
―――――――――――――――――――――――――――――
 頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が投票によって選出
され、この会の発起人である本多敏三郎と伴門五郎は幹事の任務
についたのです。彰義隊の発足です。
 これに頭を抱えたのは、勝や大久保らの旧幕府首脳です。彰義
隊が新政府に対する軍事組織としてとられるのを恐れ、江戸市中
取締りの任を与えたのです。彰義隊は千人を超える規模に達し
4月3日にその本拠を東本願寺から上野寛永寺に移したのです。
 勝と大久保にはもうひとつ頭の痛い問題が生じたのです。それ
は、その時点でも事実上幕府の海軍を率いていた榎本武楊は、開
陽、回天、蟠竜、千代田形、神速丸、美賀丸、咸臨丸、長鯨丸の
8艦から成る旧幕府艦隊を品川沖に集結させ、官軍との交渉結果
を見守っていたからです。
 上野に彰義隊、品川に旧幕府海軍──別に意識してそういう背
景を作ったのではありませんが、勝海舟と大久保一翁はそれを背
景に強気の交渉を行ったのです。とくに無傷の幕府の海軍は、新
政府軍にとって脅威であり、しかも軍艦8隻が品川に集結してい
ることは新政府軍に無言の圧力になったのです。
 ここで当時の軍艦がどの程度の戦闘力を持っていたかについて
知っておく必要があります。旗艦開陽は、幕府がオランダに造船
を依頼した最後の船なのです。当初装備の大砲は26門だったの
ですが、あとから9門追加して35門を持つ当時世界トップクラ
スの戦艦だったのです。
 もし、新政府軍が江戸を攻める場合、品川付近に大軍を配置す
る必要がありますが、それにめがけて開陽をはじめとする旧幕府
海軍の軍艦が艦砲射撃を行うと、多大の犠牲者が出てしまうこと
になるのです。つまりその時点では、旧幕府軍が完全に制海権を
握っていたのです。
 総督府は、たびたび勝と大久保を呼び出し、彰義隊を何とかし
ろと再三にわたって命令してきたのですが、千名をはるかに超え
る組織になっていた彰義隊は、既に旧幕府にはコントロールでき
ない存在だったのです。
 慶応4年4月7日に総督府・大監察使三条実美から次の勅命が
下ったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       徳川家は田安亀之助に相続させる
―――――――――――――――――――――――――――――
 新政府軍は彰義隊の膨張を心配していたのです。なぜなら、そ
の時点で彰義隊は、新政府軍と一戦交えようと各地から脱藩兵が
続々と参加し、3千人ほどに膨れ上がっていたからです。
 そのため、新政府軍としては、徳川家の相続を早く認めること
によって、慶喜を水戸に退去させれば彰義隊は解散させられるの
ではないかと考えたのです。もともと彰義隊は慶喜の身辺警護を
目的として作られたものであったからです。
 徳川慶喜が上野寛永寺から水戸へ向かったときの様子について
『徳川慶喜の無念』の著者は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶喜が上野寛永寺を出て、水戸に向かったのは慶応四年四月十
 一日である。「公は積目の憂苦に顔色憔悴して、髪は増毛(は
 り鼠の毛)のごとく、黒木綿の羽織に小倉の袴を付け、麻裏の
 草履を召されたり。精鋭隊、遊撃隊、彰義隊など二百人ほどが
 護衛せり。拝観の人々、悲涙胸を衝き、鳴咽して仰ぎ見る者な
 かりき」『徳川慶喜公伝』はこの日の模様をこう記している。
 髪が本当にぼさぼさになっていたのか、信じがたい部分もある
 が、敗軍の将の惨めさはいつの世も同じである。江戸城中の金
 も底をついており、新門辰五郎が二万両を持参し、慶喜の当座
 の賄い費に当てる窮乏ぶりであった。
               ──星 亮一・遠藤由紀子共著
       『最後の将軍/徳川慶喜の無念』より/光人社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 彰義隊は慶喜を下総松戸まで護衛して行ったのですが、彰義隊
自体は寛永寺に残ったのです。彰義隊は、寛永寺貫主を兼ね同寺
に在住する日光輪王寺門跡公現入道親王を擁して徳川家霊廟守護
を名目に寛永寺を拠点として江戸に残り続けたのです。
 渋沢成一郎は慶喜が江戸を退去したため、彰義隊も江戸を退去
し、日光へ退く事を提案したのですが、天野八郎は江戸での駐屯
を主張したため分裂します。しかも、天野派の隊士の一部が渋沢
の暗殺を図ったため、渋沢は彰義隊を離脱してしまうのです。勝
海舟は彰義隊に対し、再三解散を要請したのですが、彰義隊は聞
く耳を持たなかったのです。
        ―――─  [明治維新について考える/33]


≪画像および関連情報≫
 ●渋沢成一郎とは何者か
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  1838年、武蔵国血洗島村(現埼玉県深谷市)の農民・渋
  沢文左衛門(文平)の長男として生まれる。青年に達した成
  一郎は尊皇攘夷の志をもった親戚の篤太夫(後の渋沢栄一)
  らと共に高崎城乗っ取り計画を計画するも頓挫。一旦は江戸
  へ逃れるが、元治元年(1864年)、一橋家当主一橋慶喜
  に仕える。当初は四石一人扶持だったが、一橋家農兵の徴募
  係として各地の農村との交渉役を経て、その功績が認められ
  慶応2年(1866年)に陸軍附調役に昇格して百俵の扶持
  米が与えられた。そして慶応3年(1867年)には、一橋
  家当主だった慶喜が将軍になると奥右筆に任じられ、上京し
  ている。              ──ウィキペディア
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渋沢成一郎.jpg
渋沢 成一郎
posted by 平野 浩 at 04:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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