2011年03月24日

●「天璋院は江戸城開城にどう対応したか」(EJ第3022号)

 江戸城開城──この連絡は江戸城の大奥にはどのように知らさ
れたのでしょうか。大奥を束ねる天璋院の側からこれを見ること
にします。
 慶応4年(1868年)4月8日のことです。大総督の宮から
「11日の夕方までには城内はすべて退去されよ」という指令が
出されたのです。
 江戸城に残っている閣僚たちは鳩首談合し、四院と御台所につ
いてその移転先を次のように決めたのです。閣僚といっても上の
役職の者がすべて逃げ出してしまったので、はるかに低い地位の
者が重要なことを決めなければならなかったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
    静寛院/実成院 ・・・・・     清水邸
    天璋院/本寿院 ・・・・・     一橋邸
    慶喜御台所   ・・・・・ 小石川梅の御殿
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで実成院は家茂の生母、本寿院は家定の生母です。ところ
で、慶喜の御台所の一条美賀子は大奥に入っておらず、他の院と
は別の扱いになっています。
 この伝達はすぐ行なわれ、三院──静寛院、実成院、本寿院は
素直に受け入れ、さっそく身の回りの準備をはじめたのですが、
天璋院は頑としてこれを受け入れなかったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 やがて対面の間ではるかな下座に控える用人に向って篤姫は鋭
 く呼びかけた。「そのほうたちに改めてたずねる。主は誰にい
 らせられるか」と聞いた。平伏している用人は、これはいぶか
 しきこと、と少し頭を下げて「は、将軍家にいらせられます」
 と答えるとただちにたたみかけられ、「ならば、城明け渡しは
 その将軍家よりご命令が下されしものか。主なき空城を、むざ
 むざと敵の手に渡せよというご命令がもはや下されたのか」と
 詰め寄られ、用人は冷汗三斗の思いで、「上さまはただいまご
 謹慎中にて、直接のご命令にてはございませぬが」と口ごもる
 と、はげしい叱責が降ってきて「上さまは近々水戸にお移り遊
 ばされるが、ご胸中何か思し召しあるやも知れず、その先途も
 見届け奉らず幕臣が我が手で我が城を敵に明け渡すと申すか。
 いい甲斐もなき者どもなり。徳川譜代の臣ならばいまこそ神君
 以来の恩顧にこたえ、この江戸城だけは死守すべきが武士の道
 というものであろう。女子なれどもこの天璋院、ここに在るか
 らには決して城は明け渡さぬ。そのほう帰りて閣老にこのよし
 伝えよ」といい渡した。
      ──宮尾登美子著『天璋院篤姫』下/講談社文庫刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 江戸城の閣僚たちは、想定外の天璋院の抵抗に遭い、困惑した
のです。しかもいっていることは筋が通っており、正面からは反
論ができないのです。
 4月9日の夜遅くになって、ひとつの結論が出たのです。それ
は「方便を以ってしても移し参らすべし」というものであったの
です。要するにウソをついて移ってもらうしかないという結論で
あったのです。
 10日の朝、天璋院掛りの用人4人と用達6人、計10人が対
面の座にやってきて、滝山を通じて天璋院に拝謁を申し出たので
す。最初のうちは天璋院は目通りを許さなかったのですが、滝山
の説得で拝謁が許されたのです。
 しかし、じきじきの目通りは許さず、一段高い席に座り、御簾
を下ろさせて顔が見えない状態での対面であったのです。そうい
う天璋院に対して、用人の頭である岩佐摂津守はおそるおそる次
のように言上したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 このたびのおん立ち退きは、朝廷からの御旨意を承りし証しと
 して、3日間だけお城をお出遊ばし頂きたく、その後はまたご
 帰城の沙汰を当方よりさし向け奉りますに付き、何とぞ了承願
 い上げ奉ります。             ──岩佐摂津守
      ──宮尾登美子著『天璋院篤姫』下/講談社文庫刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、「3日のうちに移去」というのを「3日間だけ移去」
に置き換えるウソをついたのです。もちろん天璋院はそれを信じ
たわけではなかったのですが、このウソによって一応振り上げた
拳を下ろすことができたのです。
 実際に天璋院は、自分の荷物については、「3日以内に戻るな
らたくさん持って行く必要はない」として、ほとんどを置いて出
ているのです。天璋院は最初から最後まで慶喜とは波長が合わな
かったといえます。もともと天璋院篤姫は、一橋慶喜を将軍する
ために斉彬の命にしたがって将軍家定に嫁いだのです。
 しかし、篤姫は、慶喜にはじめて会ったときから何となく違和
感があり、むしろ家茂の方がはるかに将軍にふさわしいと感じて
いたのです。その慶喜に最後の最後まで天璋院は翻弄されたこと
になります。
 天璋院は移転の翌日の12日に唐橋を通じて本当のことを聞か
されたときも何の動揺も見せなかったといいます。何もかも承知
の上での演技であったようです。しかし、天璋院はその後、徳川
家歴代の位牌を安置してある部屋に籠り、長い間出てこなかった
といいます。
 「人の長たるもの、かりにも前途の衰退を匂わせる言動はして
はならぬ」とはかつてあの幾島から教えられた基本であって、徳
川家の存続を固く信じてまわりの者にいってきたことを最後の最
後まで守り抜いたのです。
 とくに天璋院は、徳川家を滅ぼした敵の中に、出身の薩摩藩が
入っていることにも悩んでおり、後日その薩摩藩から年に3万両
の資金提供を申し出られたときには断固としてそれを撥ねつけて
いるのです。  ―――─  [明治維新について考える/32]


≪画像および関連情報≫
 ●天璋院の晩年の生活
  ―――――――――――――――――――――――――――
  江戸も名を東京に改められた明治時代。鹿児島に戻らなかっ
  た天璋院は、東京千駄ヶ谷の徳川宗家邸邸で暮らしていた。
  生活費は倒幕運動に参加した島津家からは貰わず、あくまで
  徳川の人間として振舞ったという。規律の厳しかった大奥と
  は違った自由気ままな生活を楽しみ、旧幕臣・勝海舟や静寛
  院宮とも度々会っていたという。また、徳川宗家16代・徳
  川家達に英才教育を受けさせ、海外に留学させるなどしてい
  ていたという。           ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

天璋院篤姫/大河ドラマ.jpg
天璋院篤姫/大河ドラマ
posted by 平野 浩 at 04:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/192214490
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック