れたのでしょうか。大奥を束ねる天璋院の側からこれを見ること
にします。
慶応4年(1868年)4月8日のことです。大総督の宮から
「11日の夕方までには城内はすべて退去されよ」という指令が
出されたのです。
江戸城に残っている閣僚たちは鳩首談合し、四院と御台所につ
いてその移転先を次のように決めたのです。閣僚といっても上の
役職の者がすべて逃げ出してしまったので、はるかに低い地位の
者が重要なことを決めなければならなかったのです。
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静寛院/実成院 ・・・・・ 清水邸
天璋院/本寿院 ・・・・・ 一橋邸
慶喜御台所 ・・・・・ 小石川梅の御殿
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ここで実成院は家茂の生母、本寿院は家定の生母です。ところ
で、慶喜の御台所の一条美賀子は大奥に入っておらず、他の院と
は別の扱いになっています。
この伝達はすぐ行なわれ、三院──静寛院、実成院、本寿院は
素直に受け入れ、さっそく身の回りの準備をはじめたのですが、
天璋院は頑としてこれを受け入れなかったのです。
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やがて対面の間ではるかな下座に控える用人に向って篤姫は鋭
く呼びかけた。「そのほうたちに改めてたずねる。主は誰にい
らせられるか」と聞いた。平伏している用人は、これはいぶか
しきこと、と少し頭を下げて「は、将軍家にいらせられます」
と答えるとただちにたたみかけられ、「ならば、城明け渡しは
その将軍家よりご命令が下されしものか。主なき空城を、むざ
むざと敵の手に渡せよというご命令がもはや下されたのか」と
詰め寄られ、用人は冷汗三斗の思いで、「上さまはただいまご
謹慎中にて、直接のご命令にてはございませぬが」と口ごもる
と、はげしい叱責が降ってきて「上さまは近々水戸にお移り遊
ばされるが、ご胸中何か思し召しあるやも知れず、その先途も
見届け奉らず幕臣が我が手で我が城を敵に明け渡すと申すか。
いい甲斐もなき者どもなり。徳川譜代の臣ならばいまこそ神君
以来の恩顧にこたえ、この江戸城だけは死守すべきが武士の道
というものであろう。女子なれどもこの天璋院、ここに在るか
らには決して城は明け渡さぬ。そのほう帰りて閣老にこのよし
伝えよ」といい渡した。
──宮尾登美子著『天璋院篤姫』下/講談社文庫刊
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江戸城の閣僚たちは、想定外の天璋院の抵抗に遭い、困惑した
のです。しかもいっていることは筋が通っており、正面からは反
論ができないのです。
4月9日の夜遅くになって、ひとつの結論が出たのです。それ
は「方便を以ってしても移し参らすべし」というものであったの
です。要するにウソをついて移ってもらうしかないという結論で
あったのです。
10日の朝、天璋院掛りの用人4人と用達6人、計10人が対
面の座にやってきて、滝山を通じて天璋院に拝謁を申し出たので
す。最初のうちは天璋院は目通りを許さなかったのですが、滝山
の説得で拝謁が許されたのです。
しかし、じきじきの目通りは許さず、一段高い席に座り、御簾
を下ろさせて顔が見えない状態での対面であったのです。そうい
う天璋院に対して、用人の頭である岩佐摂津守はおそるおそる次
のように言上したのです。
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このたびのおん立ち退きは、朝廷からの御旨意を承りし証しと
して、3日間だけお城をお出遊ばし頂きたく、その後はまたご
帰城の沙汰を当方よりさし向け奉りますに付き、何とぞ了承願
い上げ奉ります。 ──岩佐摂津守
──宮尾登美子著『天璋院篤姫』下/講談社文庫刊
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つまり、「3日のうちに移去」というのを「3日間だけ移去」
に置き換えるウソをついたのです。もちろん天璋院はそれを信じ
たわけではなかったのですが、このウソによって一応振り上げた
拳を下ろすことができたのです。
実際に天璋院は、自分の荷物については、「3日以内に戻るな
らたくさん持って行く必要はない」として、ほとんどを置いて出
ているのです。天璋院は最初から最後まで慶喜とは波長が合わな
かったといえます。もともと天璋院篤姫は、一橋慶喜を将軍する
ために斉彬の命にしたがって将軍家定に嫁いだのです。
しかし、篤姫は、慶喜にはじめて会ったときから何となく違和
感があり、むしろ家茂の方がはるかに将軍にふさわしいと感じて
いたのです。その慶喜に最後の最後まで天璋院は翻弄されたこと
になります。
天璋院は移転の翌日の12日に唐橋を通じて本当のことを聞か
されたときも何の動揺も見せなかったといいます。何もかも承知
の上での演技であったようです。しかし、天璋院はその後、徳川
家歴代の位牌を安置してある部屋に籠り、長い間出てこなかった
といいます。
「人の長たるもの、かりにも前途の衰退を匂わせる言動はして
はならぬ」とはかつてあの幾島から教えられた基本であって、徳
川家の存続を固く信じてまわりの者にいってきたことを最後の最
後まで守り抜いたのです。
とくに天璋院は、徳川家を滅ぼした敵の中に、出身の薩摩藩が
入っていることにも悩んでおり、後日その薩摩藩から年に3万両
の資金提供を申し出られたときには断固としてそれを撥ねつけて
いるのです。 ―――─ [明治維新について考える/32]
≪画像および関連情報≫
●天璋院の晩年の生活
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江戸も名を東京に改められた明治時代。鹿児島に戻らなかっ
た天璋院は、東京千駄ヶ谷の徳川宗家邸邸で暮らしていた。
生活費は倒幕運動に参加した島津家からは貰わず、あくまで
徳川の人間として振舞ったという。規律の厳しかった大奥と
は違った自由気ままな生活を楽しみ、旧幕臣・勝海舟や静寛
院宮とも度々会っていたという。また、徳川宗家16代・徳
川家達に英才教育を受けさせ、海外に留学させるなどしてい
ていたという。 ──ウィキペディア
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天璋院篤姫/大河ドラマ


