2011年03月23日

●「タフ・ネゴシエーター/大久保一翁」(EJ第3021号)

 慶応4年(1868年)4月4日のことです。江戸城に勅使を
迎えたのです。勅使側と江戸城側の主要メンバーを上げると、次
のようになります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪勅使側≫
  先鋒総督・橋本実梁(さねやな)、副総督・柳原前光
  参謀・西郷吉之助以下30名
 ≪江戸城側≫
  徳川家代表・田安慶頼(松平春嶽の弟)
  若年寄・大久保一翁、浅野氏祐、川勝広運、服部綾雄
  前若年寄・牧岡道弘、大目付・織田信重、堀錠之助、河田煕
  梅沢孫太郎、その他目付5〜6人
―――――――――――――――――――――――――――――
 この中には勝海舟はいないのです。江戸城側のことは当時大久
保一翁がすべて仕切っていたのです。勅使は午後1時頃に江戸城
西丸に入り、次のように勅命をいい渡したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶喜は死罪一等を許して、水戸で謹慎。徳川家は存続させる。
 江戸城は尾張藩に管理させる。軍艦・武器引き渡し、慶喜の反
 謀を助けた幕臣を処分せよ         ──古川愛哲著
       『勝海舟を動かした男 大久保一翁』/グラフ社
―――――――――――――――――――――――――――――
 この瞬間、慶喜が望んでいたように、自身の身の安全と徳川家
の存続は決まったのです。これは勝と大久保の尽力の賜物です。
そして、江戸城の引き渡しは、4月11日に決まったのです。
 しかし、ことはこれで終りではなかったのです。4月9日にな
って、陸軍副総裁並の白戸石介が、陸海軍一同の嘆願書を持参し
て、勝海舟に対し官軍側と掛け合って欲しいと申し入れてきたの
です。その内容は次の3つです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.江戸城は田安亀之助にお預け願いたい
  2.徳川家の相続者に尾張家はご勘弁願いたい
  3.軍艦、銃砲は家臣の録高で持てるようにして欲しい
                ──古川愛哲著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを受けて、勝と大久保は早速官軍の先鋒軍本営である池上
本門寺に出かけて行ったのです。応対したのは、参謀の海江田武
次と木梨精一郎の2人です。
 冒頭、海江田は、「勅命は天皇の言葉であって、一度出たら変
更はできない」と釘を刺したのです。このやり取りのなかで「徳
川の相続者が尾張家から出るというのは何の根拠もない噂であり
あり得ない」という言質を引き出したのです。何しろ勝と大久保
といえば、交渉の達人──今どきのタフ・ネゴシエーターであり
とても海江田や木梨が勝てる相手ではないのです。
 こういう状況を読んで、勝と大久保は次の3つのことを要求し
たのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
         1.軍艦引き渡しの件
         2.武器引き渡しの件
         3.江戸城の人材の件
―――――――――――――――――――――――――――――
 第1は「軍艦引き渡しの件」です。
 勅命には「軍艦」と表記してあったのです。勝はこれを逆手に
取り、軍艦でない護送船は返せ!と逆襲したのです。勅命は変え
られないのだからそうすべきだと要求したのです。
 第2は「武器引き渡しの件」です。
 武器はすべて引き渡せということですが、その武器を扱う歩兵
が4000名もいるので、この歩兵を官軍で引き取ってもらいた
いという要望です。武器を取り上げられた歩兵をこちらでは雇う
力はないという理屈です。もし、官軍がこれを拒否すると、彼ら
は生活に困るので、暴徒化して江戸の治安を乱す恐れがある──
このように脅したのです。
 第3は「江戸城の人材の件」です。
 江戸城内には、倉庫、各種工場、木材などの多くの建物と物資
があり、それらを守る守衛が数百人いる──それらの守衛もすべ
て引き取って欲しいという申し入れです。
 敗戦処理なのにムシのよい申し入れではあったのですが、海江
田と木梨は「審議のため一日時間が欲しい」といったので、勝と
大久保は引き揚げたのです。
 翌日の4月10日に勝と大久保が池上本門寺に行ったところ、
江戸城の田安家お預けの件を含む3つの要望はすべてOKという
ことになったのです。勝と大久保の交渉力は驚くべきものである
といえます。官軍はこういうことに慣れておらず、勝と大久保に
手もなくひねられてしまったのです。
 そして、翌4月11日、江戸城引き渡しが行われたのです。こ
の式は大久保一翁が徳川家を代表して行われ、きわめて簡略のう
ちに実施されたのです。勝海舟はこれについて「幕末始末」に次
のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 四月十一日、城地、武器、その他、引き渡しの式終わる。官人
 の入城せし者は、柳原前光、西郷吉之助、その他五、六名。我
 が方、その式に臨むものは、田安中納言、大久保一翁、その他
 五、六名。礼譲謹厳、その式を完うしてやむ
                ──古川愛哲著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 これで徳川260年の幕が一応平穏のうちに下りたのですが、
実は勝海舟にとっては、これからが大変だったのです。しかし、
その勝の苦労はほとんど伝えられていないのです。
        ―――─  [明治維新について考える/31]


≪画像および関連情報≫
 ●大久保一翁について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  低身分から出世した一翁は実力ある官僚と評価され、松平慶
  永や勝海舟ですら敬服したと言われている。勝の出世の方途
  を開いたのが一翁であり、元々は一翁は勝にとって上司に当
  たる。なので、勝にとっては敬服というよりも恩義がまずあ
  り、後は幕末時に共に政局混乱終息に動いた数少ない同志と
  しての思いが強いといえる。勝の方が重要な政局に当たった
  ため、一翁の名は勝ほど知られていない。勝海舟や山岡鉄舟
  らと共に江戸幕府の無血開城に貢献したため、「江戸幕府の
  三本柱」といわれる。        ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

大久保一翁/江戸城無血開城の影の立役者.jpg
大久保一翁/江戸城無血開城の影の立役者
posted by 平野 浩 at 04:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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