回会談が行われたのです。場所は芝田町の薩摩下屋敷です。この
会談の様子を描いた絵画が添付ファイルにあります。
作家の永岡慶之助氏は、『歴史街道』4月号掲載の論文の中で
そのときの勝と西郷のやりとりを次のように表現しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
翌十四日は芝田町の薩摩屋敷での会見。勝は座敷に通されたが
西郷の姿はなく、しばらくしてから軍服に下駄履き姿の西郷が
庭の方から現われ、「遅くなり申した」と詫びて座についた。
その西郷に勝は、先に山岡が駿府から持ち帰った新政府作成の
処分案を、更に寛大に修正した案文を手渡した。書面に眼を通
す西郷の表情がみるみる固く強張るのがわかった。西郷の瞳に
はおどろきの色があつた。新政府が考えている以上に徳川方は
強気なのだ。 ──『歴史街道』/2011年4月号
―――――――――――――――――――――――――――――
実は第2回目の会談には諸説があるのです。第2日目も1対1
で会ったとする根拠は海舟自身の日記の記述なのです。しかし、
「岩倉公実記」と「徳川慶喜公伝」によると、勝海舟と大久保一
翁の2人で会ったと書いてあるのです。さらに新政府軍側も西郷
隆盛一人ではなく、3人で臨んでいるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
≪新政府軍側≫
西郷吉之助(総大将) 海江田武次(参謀)
村田新八(隊長)、中村半次郎(隊長)
≪旧幕府軍側≫
勝 海舟 大久保一翁
―――――――――――――――――――――――――――――
衣装も大きく違っています。官軍側は西郷以下3人は軍服に身
を固めており、勝と大久保は継上下(つぎかみしも)で会議の席
に着いています。継上下というのは、肩衣(かたぎぬ)と袴(は
かま)の地質・色合いが異なる上下であり、江戸時代の武士の略
儀の公服です。添付ファイルの絵画とは大きく異なっています。
しかし、14日は13日と違って重要事項を決める必要がある
──威儀を正して臨むのが自然であると思われます。
はっきりしていることは、13日に西郷が勝に突きつけた条件
は、旧幕府としては絶対に飲めない条件であるということです。
そんなことは西郷もよくわかっていることです。
西郷の条件とは、慶喜を孤立させ、徳川に全面的な武装解除を
迫り、徳川家に協力した旗本や藩は新政府軍が処分するというも
のであり、とても受け入れられるものではなかったのです。
これに対しては一翁が一方的に官軍に対して異議の申し立てを
行なったのです。それはおおよそ次のようなものであったと考え
られます。史料が残っていないが、およそ次のような内容であっ
たと考えられるのです。
官軍か旧幕府軍に示された7ヵ条は、われわれとして到底承服
できるものではない。われわれとしてはあくまで恭順を貫く所存
であるが、もし、官軍がこの条件にこだわるのであれば、旧幕府
軍としては、徹底抗戦を覚悟しなければならない。幕府軍は無傷
の12隻の軍艦からなる幕府・諸藩連合艦隊を有しており、官軍
に十分に対抗できる軍事力を駆使できる。
しかるに諸外国が虎視眈々としてわが国への進出の機会を窺っ
ている現在、日本人同士で戦うことは愚かであり、やるべきでは
ない。もし、江戸で殺し合いをするなら、多くの無辜の民の死を
増大させる──われわれとしてはそのようなことはやりたくない
と考えている。幕府としては大政奉還し、徳川家は一大名になっ
てもよいと決意しているのに、それを潰すのは過酷ではないか。
徳川家はあくまで恭順を貫くつもりである。
列席者の印象によると、一翁の話は、よく順序立ち、説得力が
あり、見事な反論であったと評価されています。西郷から見ると
勝は早くから幕府には限界を感じており、はじめて西郷にあった
とき次のように告げているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
幕府はもうダメだよ
―――――――――――――――――――――――――――――
こういう勝とは違って、大久保は勝よりも高い地位で長きにわ
たり、幕府の中枢にいたのです。少なくとも新政府軍に反論する
役回りとしては勝よりはるかにふさわしかったことは確かです。
結局、大久保が新政府軍に対して提案した講和条件としては次
のようなものであったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
1、慶喜隠居・水戸で謹慎。2、江戸城明け渡し、田安家で管
理。3、軍艦の一部は保有。4、武器の一部は保有。5、旧幕
臣の城外撤収。6、佐幕派大名・旗本の寛典(死罪の免除)。
7、市中治安維持を引受け。 ──古川愛哲著
『勝海舟を動かした男 大久保一翁』/グラフ社
―――――――――――――――――――――――――――――
要するに、徳川家は一大名として残るという案なのです。西郷
は思案したのです。こんな案では、官軍の強行派はとても納得せ
ず、強い批判を浴びることはわかっていたのですが、そのときは
英国公使パークスの意向を話して説得するしかない。いや、それ
は十分可能であると考えたのです。そして、勝と大久保に対して
次のようにいったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
分かり申した。しかし自分の一存ではいかぬ点もあるので、こ
れより総督府へ参って審議のうえ、ご返事いたす。
―――――――――――――――――――――――――――――
そして隊長の中村半次郎に「明日の総攻撃は中止じゃ。その旨
諸部隊に伝達するよう至急手配せよ」と命じたのです。江戸城攻
撃は中止されたのです。─ [明治維新について考える/30]
≪画像および関連情報≫
●「江戸城無血開城」のブログより
―――――――――――――――――――――――――――
よく、考えてみてください。もし、「江戸城無血開城」、の
ような形にならなかったとしたら。江戸の城中で、幕府軍と
維新軍の市街戦が始まっていたら。白虎隊なんてものでは、
すまないですよ。アメリカの南北戦争のように泥沼の状況に
なっていただろうし、南北朝鮮は今だに、統一さえできてい
ないわけですよ。文明開化など、実現できたでしょうか(も
しかしたら、徳川家が絶滅してそれだけかもしれませんが、
政治の正統性は常にデリケートなわけでね。一つ間違えれば
日本の戦後だって今のイラクのようになっていたでしょう。
http://d.hatena.ne.jp/martbm/20080724/1216836433
―――――――――――――――――――――――――――
●絵画出典/『歴史街道』/2011年4月号
勝・西郷第2回目会談絵画


