2011年03月18日

●「勝海舟と西郷隆盛の第1回会談」(EJ第3019号)

 西郷隆盛は、山岡鉄舟と静かに話したあと、一時中座し、しば
らくすると戻ってきて、次の書類を山岡に渡したのです。そこに
は、慶喜を許す条件が7つ書いてあったのです。
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 一、慶喜を備前岡山藩へ預けること
 一、江戸城を明け渡すこと
 一、軍艦を残らず引き渡すこと
 一、兵器を一切、引き渡すこと
 一、城内の家臣は向島へ移り、謹慎すること
 一、慶喜の妄挙を助け、暴挙に出る者は厳罰に処する
 一、幕府が鎮撫しきれず暴挙する者があれば、官軍が鎮める
   星亮一/遠藤由紀子著『徳川慶喜の無念』(光人社刊)
―――――――――――――――――――――――――――――
 目を通した山岡鉄舟は、「第一条については承服しかねる」と
反対の意を表明したのです。これに対して西郷は、「勅命でごわ
す」とはねつけたのです。山岡は必死の面持ちで次のように問い
返したのです。『歴史街道』2011年4月号から、そのやりと
りを再現します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 山岡:立場を変えてお考え頂きたい。もし先生が拙者の立場に
    あられたら、黙って主君を差し出されるか
    (しばらく沈黙する西郷)
 西郷:分かり申した。慶喜殿がこと、この吉之助きっと良きよ
    うに計らい申すゆえ、御心痛なきように
           ──『歴史街道』2011年4月号より
―――――――――――――――――――――――――――――
 山岡鉄舟はよくやってくれたのです。これで官軍との外交ルー
トができたからです。山岡が西郷の7ヵ条の条件書を勝に渡すと
勝はそれを読んで「してやったり」と内心喝采を叫んだのです。
「これで慶喜を救える」と。
 既に官軍は3月15日に江戸城総攻撃を決めているのです。勝
海舟は直ちに官軍の西郷隆盛と連絡を取り、3月13日と14日
の2日間にわたって新政府軍、徳川家双方の最高責任者として西
郷と勝が会談をすることになったのです。場所は次のように決め
られたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  慶応4年3月13日 ・・・・・ 高 輪薩摩藩上屋敷
  慶応4年3月14日 ・・・・・ 芝田町薩摩藩下屋敷
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 第1回会談は、高輪薩摩藩上屋敷で行なわれたのです。そのと
き、勝は従者1人を連れて出かけています。そんなのでは危ない
ので、二大隊ぐらい連れて行くべきだという声があったのですが
勝は断っています。もし、先方がその気であれば二大隊ぐらいで
は効果はないとして、わざと2人で行ったのです。
 勝としては、はじめから第1日目の13日は、挨拶程度で終わ
らせるつもりでいたのです。このときは、勝と西郷の2人だけで
会っているのですが、そのとき話し合われたのは、静寛院宮の処
遇だけであり、その話が終ると勝はさっと引き揚げています。
 勝としては西郷の表情を偵察に行ったのです。静寛院宮につい
て勝は次のように話しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 官軍が砲火をもって江戸城を攻撃すれば、静寛院宮(和宮)、
 天璋院(篤姫)の身の上はどうなる。おふた方とも徳川家の者
 として殉じるとおっしやってる。その他のお話は、いずれ明日
 まかり出で、ゆるゆるいたそう、それまでに貴君もとくとご勘
 考あれ。                 ──古川愛哲著
       『勝海舟を動かした男 大久保一翁』/グラフ社
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 おそらく西郷としては、13日の第1回会談時点では、山岡鉄
舟に渡した7つの条件を勝は飲めないだろうと考えていたと思わ
れます。つまり、15日の江戸城攻めは避けられないと西郷は考
えていたのです。
 西郷自身としては、本当は江戸城攻めをやりたくなかったので
す。しかし、好戦的な板垣退助や長州藩の面々、公家の岩倉具視
や三条実美などは口をそろえて「慶喜切るべし」と「江戸城攻撃
せよ」の一点張りなのです。
 ところが、勝が帰った後の午後2時頃にある情報が西郷にもた
らされたのです。実は13日の朝から、15日の江戸城攻撃のさ
い多数の死傷者が出ることが予想されるので、在邦英国人用の病
院を使わせてもらえないかという交渉を英国大使パークスに次の
2人がしに行ったのです。
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   東海道先鋒総督参謀 ・・・ 木梨精一郎/長州藩
   東海道先鋒総督参謀 ・・・  渡辺 清/大村藩
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 しかし、それまで薩長軍に対し、何かと協力してきた英国公使
パークスは、人が変わったようにこの要求を拒絶し、逆に次のこ
とを要求したのです。
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 慶喜は恭順しているのに死罪にする道理はない。助命して欲し
 い。江戸城も明け渡せば、朝廷の目的は叶い、名目も立つ。西
 洋各国では、たとえ暴悪の人も、政治の大権を一度でも握った
 人物を死罪にする例はない。これが万国公法の道理である。フ
 ランスのナポレオンは敗れたが、流罪で死一等を許している。
 もし戦争するなら横浜居留地の各国領事に通知して、警備兵も
 出さなければならない。それもしない貴国に政府はない。
  古川愛哲著『勝海舟を動かした男 大久保一翁』/グラフ社
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          ──  [明治維新について考える/29]


≪画像および関連情報≫
 ●ブログ「明治という国家」より
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  勝は小作りの体に羽織袴をつけ、細身の脇差というきりっと
  した姿、これに対してだぶだぶの洋服をつけた大兵肥満の西
  郷が、「やあ勝先生」と、ニコニコ顔で迎えれば、「おお西
  郷さん、久々ぶりで」と、両雄は座についたのでした。西郷
  勝の二人が初めて会ったのは、1864年(元治元年)9月
  11日で、それから4年ぶりの再会でした。その時分から、
  「西郷どんは偉い人物だ」、「勝先生は大人格者だ」と互い
  に尊敬しあった仲でありました。この両雄、すなわち官軍と
  幕府軍の両旗頭が、頭の振り方一つで雨とも風ともなるわけ
  で、幾万の生霊を活殺する鍵を握って相対したのでした。
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2008/03/post_587.html
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勝海舟と西郷隆盛.jpg
勝 海舟と西郷 隆盛
posted by 平野 浩 at 04:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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