2011年03月17日

●「西郷との会談を買って出た山岡鉄舟」(EJ第3018号)

 可能な限りの準備を整えた勝海舟が悩んでいたのが、新政府軍
首脳との外交交渉です。そのとき、勝の前に現れたのが、山岡鉄
太郎(鉄舟)なのです。山岡鉄舟は、謹慎中の慶喜の警護に当っ
ていた精鋭隊兵頭取格(隊長)であったのです。
 「幕末の三舟」という言葉があります。これは次の3人のこと
をいっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
            勝 海舟
            山岡鉄舟
            高橋泥舟
―――――――――――――――――――――――――――――
 三舟に共通するのは、剣、禅、書の達人といわれますが、とく
に山岡鉄舟は武術に異常なほどの才能を示す人であったのです。
父親が飛騨郡代になり、飛騨で暮らすようになったことから、剣
については北辰一刀流の井上清虎の指導を受け、書については岩
佐一亭について入木道の書を学んだのです。
 父の死後、江戸に戻ってからも千葉周作を始めとする諸流派に
学び、明治13年(1880年)に独自に無刀流を開き、開祖に
なるほどの腕前であったのです。
 文久3年(1863年)に若死にした槍の名人山岡静山の妹と
結婚して山岡家を継ぐのですが、その静山の弟は高橋家を継いで
おり、泥舟と呼ばれるようになります。つまり、鉄舟と泥舟は義
兄弟なのです。
 さて山岡鉄舟は、徳川慶喜が謹慎している上野寛永寺の守護に
当っていたのですが、心痛のあまりやつれている慶喜を見て、自
分として何とかしたいと思ったのです。そのとき官軍は、東海道
を着々と江戸に向かって進軍していたのです。
 山岡は決意するのです。単身、有栖川宮大総督を訪ね、慶喜が
心から恭順している真情を伝えたいと考えたのです。問題はどの
ようにして有栖川宮大提督に会うかです。たまたま泥舟が海舟を
知っていたので、話をつけてもらい、勝海舟に会うことができた
のです。慶応4年3月5日のことです。
 勝としては、渡りに舟だったのです。しかし、その行動はあま
りにも無謀であったのですが、剣の達人である山岡ならできるか
もしれないと考えたのです。会うべき人物は西郷隆盛ですが、ど
のようにして山岡を西郷に会わせるかです。
 そこで、勝は山岡の道案内人として、薩摩藩士の益満休之助と
いう者をつけたのです。益満休之助はもともと西郷の腹心であっ
たのですが、慶応3年暮れの薩摩藩邸焼き討ちのさい、捕虜にな
り、今では勝海舟に心服しているのです。
 勝は慶喜救済の嘆願書を託し、山岡を益満休之助と一緒に駿府
(静岡)に向かわせたのです。3月6日のことです。当然のこと
ながら、官軍の先鋒隊に誰何されます。そのとき、山岡は次のよ
うに叫び、馬上で一気に駆け抜けたという話が伝わっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
  朝敵徳川慶喜の臣山岡鉄太郎、大総督府へまかり通る!
          ──『歴史街道』/2011年4月号
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、どうやらこれは真実ではなく、薩摩藩士に化けて早打
ち駕籠三挺をつらねて駆け抜けたというのが真相のようです。先
頭の駕籠には薩摩藩士中村半次郎、二番目は山岡鉄舟、最後は益
満休之助であったといわれます。前掲の『歴史街道』4月号に掲
載されている作家・永岡慶之助氏の指摘ですが、中村半次郎(桐
野利秋)がどうして加わったのかは興味のあるところです。
 このようにして山岡鉄舟は、駿府の大総督の本営に達して西郷
に面談を申し入れたのです。西郷は会うことを了承し、3月9日
に西郷対山岡の会談が実現したのです。
 問題は、勝から西郷に宛てた書簡の内容です。これは史料とし
て残っていないのですが、星亮一/遠藤由紀子氏による『徳川慶
喜の無念』(光人社刊)には次のようにあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 主君慶喜は謹慎し恭順を旨としている。にもかかわらず、大軍
 を向け江戸城総攻撃の勢いを示しているが、これはいかなる見
 込みであるか。徳川家はいまなお12艘の軍艦を持っている。
 2艘は大坂に、2艘を九州、中国に、二艘を東海道に、残る二
 艘を横浜に停泊させれば、われわれは十分に戟える。そうせぬ
 のは天下の大勢を思い、また自分と貴公の友情のためである。
 江戸の人心は湯のように沸騰していて、とても抑えることはで
 きない。いましばらく官軍を箱根の西にとどめおかれたし。
  ──星亮一/遠藤由紀子著『徳川慶喜の無念』(光人社刊)
―――――――――――――――――――――――――――――
 このように勝は西郷に対し、相当きついことをいっています。
確かに旧幕府軍は、鳥羽伏見の戦いに敗れたとはいえ、ほとんど
戦力を損なっておらず、強い指揮官が適切に采配すれば、いかに
官軍といえども簡単には旧幕府軍を破れないし、官軍が采配を誤
ると負けることも考えられるのです。したがって、勝の書簡はあ
る意味において、相当強い脅しをかけたことになります。
 これを読んで西郷がどのように考えたかです。西郷としては、
「もし、慶喜が本当に恭順の意を示すならば、官軍に向かって注
文することなどないはずだ」といっているのです。そこを補った
のは、決死の覚悟で西郷に会いに行った山岡鉄舟であっと思われ
るのです。そのとき、山岡鉄舟は、次のようなきついことを西郷
に問いかけています。
―――――――――――――――――――――――――――――
  先生はどこまで戦いを望まれ、人を殺すを専一とされるか
         ────『歴史街道』/2011年4月号
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに対して西郷は「恭順の実効さえ立てばよい」と答えてい
るのです。     ──  [明治維新について考える/28]


≪画像および関連情報≫
 ●「禅と東洋の心」/山岡鉄舟
  ―――――――――――――――――――――――――――
  海舟は鉄舟にさぐりを入れた、「貴殿はどういう手立てをも
  って官軍の陣営中に行くのか」と。鉄舟は、「官軍の陣営に
  到れば、斬るか縛るかの外はないはずである。そのとき両方
  の刀を渡して、縛るのであれば縛られ、斬ろうとするならば
  自分の思いを一言大総督宮(有栖川宮)へ言上する積りであ
  る。もし私のいうことが悪ければ、じきに首を斬ればよい。
  もし言うことがよければ、この処置を自分に任せて頂きたい
  というだけである。是非を問わずに、ただ空しく人を殺すと
  いう理はない、何の難しいことがありましょうか」と言い切
  った。我が身を擲って微動だにしない鉄舟の高邁な決意を見
  て、海舟は俄然同意して鉄舟に一任したのである。
http://rakudo.jp/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E9%89%84%E8%88%9F%EF%BC%88%E4%B8%80%EF%BC%89.html
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山岡鉄舟.jpg
山岡 鉄舟
posted by 平野 浩 at 04:12| Comment(2) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
勝海舟と大久保一翁の関係に従来誤解が多いように感じています。そもそも大久保は500石の阿部正弘に海防掛に抜擢された三河以来の旗本であり、6歳下の微禄の勝海舟を発掘し育てた人です。江戸開城時も、大久保は若年寄で、勝はその配下です。総督府からの和宮身柄の依頼も、初めは大久保宛で、あとから勝も、”俺にも”とねじ込んだのではないでしょうか。城明け渡しに出席しなかったのも、同時暗殺を恐れた大久保の配慮ではないかと思います。氷川清話は、関係者が死に絶えてからの、勝の、みんな俺がやったと言う法螺話が多いようです。
Posted by 稲松孝思(^_^)/~ at 2012年03月11日 21:59
勝海舟と大久保一翁の関係に従来誤解が多いように感じています。そもそも大久保は500石の阿部正弘に海防掛に抜擢された三河以来の旗本であり、6歳下の微禄の勝海舟を発掘し育てた人です。江戸開城時も、大久保は若年寄で、勝はその配下です。総督府からの和宮身柄の依頼も、初めは大久保宛で、あとから勝も、”俺にも”とねじ込んだのではないでしょうか。城明け渡しに出席しなかったのも、同時暗殺を恐れた大久保の配慮ではないかと思います。氷川清話は、関係者が死に絶えてからの、勝の、みんな俺がやったと言う法螺話が多いようです。
Posted by 稲松孝思 at 2012年03月11日 22:02
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