薩摩藩邸で会談することになるのですが、この勝海舟に対し、さ
まざまな支援をした人物がいるのです。それは、大久保一翁(大
久保忠寛)です。もし、この大久保一翁なかりせば、勝と西郷の
会談は成功しなかったと思われます。
大久保忠寛は、慶応元年(1865年)2月11日に49歳に
なったので、隠居の届けを出しています。それ以来、大久保忠寛
を一翁と改め、髪を切って総髪にしたのです。しかし、隠居して
も一翁は難局になるごとに呼び出され、幕府のために尽くすこと
になるのです。
大久保一翁は、安政の大獄のときにパージにあって一時失脚す
るものの、文久元年(1861年)から、幕府より復帰を許され
て再び幕政に参与するようになります。そして外国奉行・大目付
・側御用取次などの要職を歴任するのです。
政事総裁職の福井藩主の松平春嶽との交流も深く、第15代将
軍になった徳川慶喜にも大政奉還と雄藩を中心に議会政治や公武
合体を進言したのです。
大久保一翁は、勝海舟とはとくに親しく、お互いを尊敬してお
り、旧幕府末期の徳川家の存続と慶喜の命の保全には勝に協力し
て全力を尽くしているのです。大久保一翁の人となりというか、
性格について勝海舟は、その座談録「氷川清話」で、次のように
述べています。
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本質的には心がひろく、他人の意見を聞き、真っ直ぐな人であ
る。ややもすれば厳格すぎて失敗し、そのため小心な人々たち
から嫌がられやすく、永く一つの職を務めることができなかっ
た。また質素かつ勤勉を心がけ、左遷されても怠けたようすも
なかつた。 ──「氷川清話」
古川愛哲著『勝海舟を動かした男 大久保一翁』/グラフ社
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京都朝廷が一番心配していたのは、静寛院宮のことですが、既
に1月14日に静寛院宮に対し、次の連絡を入れています。
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万一の場合は、大久保一翁、勝義邦(海舟)にご依頼ありて御
帰京あるべし
古川愛哲著『勝海舟を動かした男 大久保一翁』/グラフ社
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これを見ると、京都朝廷側が、大久保一翁と勝海舟をいかに信
頼していたかがよくわかります。実際に静寛院宮の守護依頼状が
先に大久保一翁に届き、その翌日、勝海舟に届いているのです。
大久保の方が一日早いのは、地位が上であることと、信頼感が厚
いことを示しているのです。
慶応4年(1868年)2月12日、徳川慶喜は上野寛永寺に
蟄居謹慎します。その前日に新しい人事を次のように発表したの
ですが、大久保一翁の名前はちゃんと入っているのです。この中
で隠居の身分は大久保一翁だけです。
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陸軍総裁 ・・ 勝安房守/同副 藤沢志摩守
海軍総裁 ・・ 矢田堀讃岐守/同副榎本武楊
会計総裁 ・・ 大久保一翁/同副成島大隅守
外国総裁 ・・ 山口駿河守/同副河津伊豆守
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そうしている間にも新政府軍は、東海、東山、北陸の三道から
江戸を目指して大挙して進軍してきたのです。慶応4年3月3日
有栖川宮大総督が駿府に到着し、江戸城攻撃の日を3月15日と
定めたのです。
勝海舟は、鋭意新政府軍の情報収集に努めていたのですが、官
軍参謀が口々に「江戸を焼け野原にしてやる」といっているとい
う情報が入ってきたのです。
そこで、勝はすぐ手を打ったのです。新門辰五郎を呼び出し、
江戸中の親分とか、顔役といわれる人たちを集めてもらい、いざ
開戦となったら、即座に江戸の町に火を放ってくれと頼み込んだ
のです。勝という男は伝法な口をきくので有名ですが、きっと次
のようにいったものと思われます。
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敵に焼かれてしまうぐらいなら、われらの手で焼いてしまおう
じゃないか。 ──勝海舟
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江戸火消しは、一番組から十番組まであったのですが、その十
番「を」組の頭が新門辰五郎であり、厄介な連中の取りまとめに
は最適の人物だったのです。また、新門辰五郎の娘のお芳は慶喜
の側室であり、勝の依頼を一も二もなく受け入れたのです。火消
しが放火するのですから、確実に江戸中は大火事になります。
次に勝のやったことは、房総沿岸の船を買い上げ、開戦になっ
て江戸が火の海になったとき、ただちに江戸市民を避難させる手
立てを講じたのです。
さらに勝は、親しい英国公使館付通訳官アーネスト・サトウに
頼んで、パークス英国公使に会い、万一にも慶喜切腹の裁断が下
されたとき、慶喜が英国に亡命できるよう手筈を整えたのです。
これらの手配については、必要に応じて大久保一翁とも相談し
てきぱきと準備を進めたのです。実際このコンビの連携は見事な
もので、もし、慶喜が早くからこの2人にしかるべき地位を与え
厚遇していたら、この事態にはならなかったと思われるのです。
しかし、ここにきてひとつ問題が生じたのです。新政府軍と旧
幕府軍との外交関係が断絶しており、折衝の糸口がつかめなかっ
たのです。何としても新政府軍の首脳に会って話し合い、江戸を
火の海にさせないよう折衝する必要があったのです。そのとき、
思いもかけぬ人物があらわれたのです。
── [明治維新について考える/27]
≪画像および関連情報≫
●新門辰五郎とは何者か
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寛政12年(1800年)〜明治8年(1875)。江戸時
代後期の町火消(江戸浅草十番火消の頭取)・鳶職・香具師
・浅草寺新門の門番。江戸下谷(現在の東京都台東区)に煙
管(きせる)職人中村金八の子として生まれました。幼名金
太郎。金太郎9才のとき、金八の家から失火があり、周辺家
屋を焼いたため。金八は責任を感じて火中に飛び込んで自殺
したとも、事故死であったとも伝えられています。金太郎は
これをきっかけとして、火消になることを決意したといいま
す。その後、浅草寺新門の門番をしていた町田仁右衛門の娘
・錦と養子縁組し、この養父の職も継いだことから新門を名
乗りました。長じて新門辰五郎(金太郎)24才のとき、江
戸浅草十番組「を組」の頭取を継ぐこととなります。
http://kyotokawaraban.net/roziurasannsaku/dai12/tatugorou.html
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新門 辰五郎


