勝を事実上の幕閣のトップに任命し、徳川家の存続と自身の命を
守るすべての工作を勝に任せたことは既に述べた通りです。
しかし、勝海舟が徳川慶喜から膝を屈するばかりに懇願された
ことは前にも一度あり、そのとき勝は慶喜に煮え湯を飲まされて
いるのです。
慶応2年(1866年)8月のことです。勝海舟は慶喜から呼
び出され、次のように懇願されたのです。
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長州と講和を結びたい。お前のほかには頼める者がいない
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第2次長州征伐のときの話です。長州は、第1次長州征伐で幕
府に恭順したものの、高杉晋作の長州政権奪還によって、再び討
幕の旗幟を鮮明にしたため、幕府としては今度こそ長州を壊滅さ
せるつもりで、将軍家茂自らも出陣して長州討伐軍を編成しよう
としたのです。
しかし、幕府が陣触れしてみると、260年間養ってきた旗本
八万騎はどこへ行ったのやら、ほとんど集まらなかったのです。
第2次長州征伐をやることはわかっていたので、多くの旗本は家
督を息子に譲って隠居し、それを理由に出陣しなかったのです。
もうひとつは戦いの装備です。長州兵は、筒袖にズボンの洋装
で最新式の旋条ライフルで武装していたのです。いわゆる火縄銃
は、旋条のない滑腔銃身だったのです。旋条銃身から撃ち出され
る弾丸は、旋条に浅く食い込みながら進むことにより、回転運動
を与えられ、ジャイロ効果により滑腔銃よりはるかに高い直進性
を得るため、精密な射撃が可能になるのです。
これに対して幕府軍は昔ながらの戦国甲冑刀槍か火縄銃であっ
たので、装備がまるで違っていたのです。夏の暑いなか、こんな
恰好で走ったら、とても戦いにならなかったと思われます。
その結果、戦いは大敗し、その最中に将軍家茂が大阪城で急死
するというアクシデントに見舞われたのです。今にして思えば、
このとき幕府は既に崩壊していたといえます。
そこで、慶喜は将軍家茂の死を口実にして、第2次長州征伐を
やめて軍を引きたかったのです。しかし、自らが事実上の指揮を
執ったからには面子もあり、弱気は見せられないので、そのあた
りの交渉をまとめる力のある勝海舟に休戦交渉を命じたのです。
当然勝としては、幕府側も譲るべきは譲って休戦を勝ち取るつ
もりでおり、慶喜はそのことを了解しているものと思われたので
す。そこで、勝海舟は、慶応2年8月25日に芸州宮島に渡って
講和交渉を始めようとしたのです。しかし、長州藩は勝の登場に
殺気立っており、勝の宿泊する旅館に発砲する者もいて、文字通
り命がけの折衝だったのです。
しかし、慶喜は本当のところ勝海舟に全幅の信頼をおいていな
かったのです。なぜなら、勝が芸州宮島入りした次の日には、慶
喜が手回しした勅書が芸州(広島)藩に届いていたのですが、そ
れは高圧的にして、一方的な通告だったからです。
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前将軍家茂逝去につき、しばらく休戦せよ。長州は侵略した土
地を引き払え。 ──『歴史街道』/2011年4月号
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会談の予定は9月2日であり、勝が勅書を見たのは8月末日の
ことで、会談2日前だったのです。勝は芸州藩が長州に勅書を渡
さないよう依頼し、交渉せざるをえなかったのです。
会談に応じた長州藩の代表は広沢兵助と井上聞多の2人。当初
2人は次のように主張したのです。
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長州はあくまで幕府の侵攻に応じただけで、休戦するならば幕
府が兵を退けばいいだけのことである。
──『歴史街道』/2011年4月号
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勝は外国軍が内乱に応じて攻め込んだアジアの例をひき、日本
人同士が戦争することは控えなければならないとし、将軍家茂の
逝去により、幕府も独善的な政治を改める意思があると告げ、長
州に協力を求めたのです。
広沢兵助と井上聞多の2人はもとよりそのことはよく理解して
おり、最終的には一時休戦に同意したのです。しかし、交渉から
2週間後に芸州藩から勅書がもたらされると、当然のことながら
長州藩は怒り狂ったのです。不本意ながら、勝はこのようにして
長州人を裏切るかたちになったのです。
さらに慶喜はももう既に将軍になった気分で、勝の講和条件は
甘いと文句をいいはじめ、蟄居を命ぜられる始末です。勝海舟は
慶喜にはほとほと呆れ、もはや幕府では日本が立ちゆかぬと感じ
て江戸に戻ったのです。そして「長州の処分は公正に行うべし」
という建白書を慶喜に出して蟄居したのです。
これに比べると、2度目の慶喜から勝への嘆願は、まさに大仕
事であり、それを成し遂げるには勝海舟としても相当の覚悟が必
要であったのです。それについては慶喜もよくわかっていて、そ
れを成し遂げるのに必要な権限もすべて勝に与えています。
さんざん慶喜には痛い目に遭わされている勝海舟ではあったの
ですが、勝は根っからの徳川家思いの忠臣であり、慶喜の懇願を
受け入れ、乾坤一擲の勝負に出たのです。
1月17日、慶喜は勝海舟を海軍奉行に就任させ、23日には
陸軍総裁に任命させています。そして、慶喜は、松平春嶽と山内
容堂に追討令に対するこう抗議の文書を送っています。これは勝
の作戦であり、1月18日には今度は勝から松平春嶽に嘆願書を
送ったのです。
慶喜と勝は、新政府軍の議定である松平春嶽を新政府軍と朝廷
との交渉チャネルに使う方針を立てたのです。
── [明治維新について考える/26]
≪画像および関連情報≫
●鳥羽伏見の戦い当時の小銃について
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近代から現代にかけて、歩兵の最も基本的な武器として使用
されている銃。小銃弾と呼ばれる弾薬を使用し、近距離から
遠距離まで射撃をこなせる万能性を持つ。小銃をベースとし
ていても近距離の照準が困難な遠距離用照準器(スコープ)
取り付けた狙撃銃は小銃として運用されない(小銃に用いら
れる光学照準器はダットサイトや低倍率スコープなど)。逆
に近接戦闘用で遠距離射撃をこなせない短機関銃も小銃とは
呼べない。小銃は基本的に着剣しての白兵戦ができることを
求められる。現代では近接戦闘能力の高いアサルトライフル
が登場したことで必要性は落ちているものの、かつては非常
に重要な要素であった。特に近世では騎兵突撃を防ぐために
必要不可欠な要素であり、銃剣の発明前は槍隊の護衛が必要
だった。 ──ウィキペディア
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旋条銃身


