2011年03月14日

●「江戸城はなぜ炎上したのか」(EJ第3015号)

 旧幕府軍の旗艦開陽の艦長で、海軍全軍の指揮官・榎本武楊は
その後どうしたのでしょうか。榎本は慶応4年(1868年)の
新年早々薩摩藩の軍艦と戦って勝利しています。つまり、海軍は
勝っているのに陸軍は何をやっているのか──情報がぜんぜん来
ないので、海軍の戦略について陸軍総督に説明しようとして、1
月5日に軍艦奉行矢田堀讃岐守と一緒に大阪城に大河内正質総督
を訪ねたのです。
 しかし、6日には総督の本営に行ってみると、総督は留守だと
いうので、本営に一泊し、7日の早朝、大阪城に行ってみると、
城門に番兵の姿がなく、誰も部署についていないのです。
 首を傾げながら、城内に入ると、ある一室で永井尚志と平山敬
忠が暗い顔をして何やらヒソヒソ話をしていたのです。この2人
に話を聞いてやっと事情が掴めた榎本武楊は、おまけに開陽を乗
り逃げされ、はじめて自分が岡に上がったカッパ同然であること
がわかり、怒り心頭に達したといいます。そして「徳川家もこれ
までだな」と感じたというのです。
 それでも新政府軍と決戦すべしと考えている榎本は、慶喜の部
屋に行き、散乱している書類や刀剣類を江戸城に持ち帰ろうとま
とめて富士山丸に送らせたのです。
 そのとき勘定奉行の小野広胖(ひろとき)に呼び止められ、金
蔵に古金18万両があるが、どうしたらよいかと相談を受けたの
です。榎本はそのすべてを軍艦富士山に運ばせたのです。この金
18万両は荷台5輌に載せられ、厳重に護衛しながら船に運び込
まれたのです。実はこの資金は、箱館政権を樹立する脱走艦隊の
軍資金として役だったといわれています。
 一方、大阪城の引き渡しを命ぜられた妻木宮頼矩はどうしたの
でしょうか。
 妻木は尾・越両藩と連絡を取り、1月9日に城の引き渡しにつ
いて交渉する手配になっていたのです。そこで7日と8日の2日
間をかけて一人で掃除をし、整理してしていたのです。しかし、
何とか片づけた8日の夜は痛飲し、明け方近くになって、少し仮
眠をとったというのです。実はこの妻木宮頼矩は旧幕府軍が朝敵
になったことを知らず、城も一時的に尾・越両藩に預けて、後で
返してもらうのだと思っていたのです。
 そうしたら、早朝に佐々木四郎五郎が徳山と岩国の兵隊を率い
て大阪城にやってきたのです。何をしているのかと佐々木四郎五
郎が妻木に聞くと、城の受け渡しをするというのです。そうこう
話しているうちに尾・越両藩がやってきたので、妻木と一同が話
していると、突然爆発音がして、火の手が上がったのです。
 火はどんどん広がり、消火は既に不可能になり、長州兵や妻木
は大手門番所に避難し、火薬庫に延焼する恐れもあるので、全員
が逃げ出したのです。
 大阪城はそのまま燃え続けて、全焼してしまったのです。結局
薩長軍の手にわたったのは、城の焼跡だけだったのです。それで
は、一体放火犯人は誰か。当然妻木がいちばん疑われることにな
ります。しかし、妻木は自焼ではないとして、次の3つの可能性
を指摘し、自分がやっていないということを6ヵ条にまとめて、
いいのがれているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.長州兵の発射した砲弾が城内の火薬を誘爆させた可能性
 2.旧幕府軍が人足に化けて火薬を仕掛け爆発させた可能性
 3.長州兵の略奪に怒った黒鍬組が火薬に細工させた可能性
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶喜が大阪を逃げ出した噂はすぐに拡がり、この失火騒ぎに先
立つ数日間というもの、目に余る略奪行為が大阪城で繰り広げら
れたのです。つまり、城中のものは取り放題という無秩序ぶりを
呈していたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 無防備になった大坂城では、この出火騒ぎに先立つ数日間、目
 に余る掠奪行為が荒れ狂っていた。「前将軍一橋殿大坂御退去
 ありしゆえ、城中の物は取り次第と誰いうとなく言い触らし、
 さらば行かんとて大坂市中の者はいうに及ばず、三里五里近辺
 お国船手の者までも我も我もと城に入り、思い思いに品を取り
 戻る。結構なる物を拾いたる者多しという。二日の間右の通り
 なり」     ──「真覚寺日記」『讃繁泉州堺烈挙』所収
             ──野口武彦著/中公新書2040
       『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、城の受取り人の一人に指名されていた松平春嶽は、こ
れは慶喜公の考えであり、城を尾越の使者に引き渡すや、出火す
るよう仕組んだものであるといっています。城を捨てて撤退する
には、敵に拠点を与えないよう焼き払って退却するのが戦争の常
道であり、あくまで恭順を貫く以上公然とはできないので、工作
してやったものとしているのですが、真相は現在もわかっていな
いのです。いずれにせよ、当の妻木は、長州兵に尋問されること
もなく、1月10日に伊賀路経由で江戸に戻っているのです。
 この鳥羽伏見の戦いにおいては、両軍で390人が死亡してい
るのです。新政府軍は112人、旧幕府軍は278人です。兵の
数では旧幕府軍は圧倒的だったにもかかわらず、死者が新政府軍
よりも多いのです。
 しかし、旧幕府軍の軍勢はざっと1万5千人おり、そのほとん
どがそのまま江戸に帰還しています。江戸には、さらに大勢の軍
勢もおり、軍艦がすべて無傷で残っているのです。したがって、
まともに戦えば、新政府軍といえども、そう簡単に江戸城を落と
せなかったことは明白です。
 事実上幕府の運命を託された勝海舟は、こういう無傷の兵と軍
艦をフルに使って、戦争をしないで徳川家と慶喜の命を守る重責
をどのように果たすのでしょうか。
          ──  [明治維新について考える/25]


≪画像および関連情報≫
 ●榎本武楊についての情報
  ――――――――――――――――――――――――――――
  思想は開明、外国語にも通じた。蝦夷島政府樹立の際には、国
  際法の知識を駆使して自分たちのことを「事実上の政権」であ
  るという覚書を現地にいた列強の関係者から入手する(交戦団
  体という認定は受けていない。また、この覚書は本国や大使の
  了解なく作られたものである)という、当時の日本としては画
  期的な手法を採るなど、外交知識と手腕を発揮した。義理・人
  情に厚く、涙もろいという典型的な江戸っ子で明治天皇のお気
  に入りだった。また海外通でありながら極端な洋化政策には批
  判的で、園遊会ではあえて和装で参内するなどしている。
                     ──ウィキペディア
  ――――――――――――――――――――――――――――

幕末の榎本武楊.jpg
幕末の榎本 武楊
posted by 平野 浩 at 04:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。