2011年03月11日

●「戊辰のダンケルク作戦」(EJ第3014号)

 慶喜主従が大阪城を脱出した1月6日の深夜のことです。京都
東本願寺の会津藩本営に土佐藩の密使が訪ねてきたのです。容堂
公の命令によって旧幕府軍の意向を探りにきたのです。
 新政府軍の主力はあくまで薩長であるが、今は兵を休めており
しばらく攻めてはこない。それに在京の諸藩は様子見をきめこん
でいて、戦う体制にない。今や京都は手薄であり、大阪城の全軍
で攻めれば戦わずして京都は落とせる。なぜ、やらないのか──
このように勧誘したのです。
 一応新政府軍に組みしている土佐藩ですが、この状態になって
も公儀政体にこだわり、鳥羽伏見の戦いでも消極的な態度をとっ
てきているのです。会津藩が慶喜公は既に東下されたと知らせる
と、密使は驚き、東下のあとは恭順するのか、再旗揚げをするの
か教えて欲しいと会津藩に食い下がったのです。
 この動きは直ちに岩倉具視の耳に入り、岩倉は怒りをもって大
仏の土佐藩本営に乗り込んできて、山内容堂に次のように抗議し
たのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 土佐藩はあまりにも朝旨に不心得である。今にいたってもその
 お気持が変わらないようであれば、速やかに大阪に行かれて、
 慶喜と行動を共にされたらどうですか。こちらは一向に構わな
 いのでぜひそうされることをお勧めする。そうされず、今まで
 のような行動をされるのであれば、土佐藩も朝敵になるお覚悟
 をしていただく必要がある。         ──岩倉具視
―――――――――――――――――――――――――――――
 これまでの土佐藩の煮え切らない態度に心底頭にきていた岩倉
具視は、容堂に対して最後通牒を出したのです。さすがの容堂も
これには屈し、これまでの態度を改め、請書を出して岩倉の要請
を受け入れたのです。
 新政府軍としてはこれまで最大の難物であった土佐藩の抵抗を
封じ込めたことによって意を強くし、まだ腰がふらついている各
藩にも態度を決めるよう促したのです。これによって、尾張、宇
和島、熊本、鳥取などの諸藩は請書を出して、新政府軍に忠誠を
誓ったのです。こうして新政府軍の体制は日を追うにつれて強化
されていったのです。
 一方、不眠不休の戦いに敗れ、やっと大阪にたどり着いた将兵
たちは、約1万人余に及んだのですが、そのほとんどが負傷して
おり、城内の雁木坂病院に収容されたものの、医師が不足してろ
くに治療もされず、放置されていたのです。
 そういう将兵たちに対し、1月7日に紀州を経て江戸に帰れと
いう指令が出されたのです。なぜ、紀州経由かというと、津藩の
藤堂家の裏切りによって、距離的に近く便利な伊賀路回りのコー
スが使えなかったからです。そこで、一応安全が約束されている
紀州を経て軍艦で将兵を江戸に運ぶ方法しかなかったのです。
 この命令が出ると、歩ける兵士たちは続々と大阪城を出て紀州
に向かったのです。しかし、金はもちろんのこと、食べるものも
寝るところもないのです。そのため、武士はその心といわれる刀
を売り払い、馬も売って一夜の宿と食べ物を求めたのです。とに
かく総司令官が一番先に逃げ出したので、大阪中は大混乱になっ
たのです。それでも将兵たちは、全軍江戸へと一斉に引き揚げて
行ったのです。
 このようにして、かなりは混乱があったものの、ほぼ全軍が江
戸に引き揚げたのです。指示があったように、ほとんどは紀州か
らの海路です。戦争として見ると、皮肉な表現ながら、この撤退
は後に「戊辰のダンケルク」と呼ばれるのです。
 ダンケルクとは、第2次世界大戦中の1940年5月に北フラ
ンスのダンケルクでドイツに敗れた英国軍が35万人の将兵をド
ーバー海峡を越えて撤退させたダンケルク作戦のことです。
 こんな話があります。鳥羽伏見の戦いで軍の副総督を務めた塚
原昌義が、責任をとって切腹せよと慶喜から示唆されたにもかか
らず、それを無視して自分も紀州に下り、紀州加太浦から軍艦富
士山に乗ろうとしたところ、たまたま同船で運ばれてきた見廻組
会桑軍の負傷者に次のように罵倒され、すごすごと船を降りたと
いうのです。副総督がこれでは鳥羽伏見の戦いはどうあっても勝
てる戦いではなかったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      敗軍の将、何の面目ありて乗船するや
             ──浅野氏祐談話より
―――――――――――――――――――――――――――――
 ところで慶喜は大阪城を誰に託したのでしょうか。
 慶喜は城の処理を尾張大納言(慶勝)と松平大蔵大輔(春嶽)
に引き渡せと、その処理を目付の妻木多宮頼矩に命じたのです。
早速妻木は両藩の家臣と連絡を取り、処理を進めようとしたので
すが、在京の慶勝と春嶽に連絡が取れないとして、手続きは遅々
として進まなかったのです。
 そのとき京都にいる新政府軍は、既に大阪城が空になっている
ことを知らなかったのです。次々ともたらされる情報は「兵がい
ない」というものばかり。これは全軍で籠城をする作戦と考えて
ひたすら兵を休めていたのです。
 しかし、これをもって新政府軍を非難できないのです。なぜな
ら、この場合、戦いの常識から見て、大阪城に籠って持久戦に出
るのは戦いのいろはであったからです。
 後に西郷隆盛は、もし一ヵ月も大阪城に籠城されると、薩摩軍
の補給は続かないといっているし、大村益次郎がいうように、江
戸において小栗忠順の立てた作戦が実行されていたら、新政府軍
は壊滅していたかもしれないといっているのです。
 しかし、慶喜の考えはそんなことではなく、自分の安全と徳川
家を守ること──それしかなかったのです。しかし、その大阪城
ではそのあと、とんでもないことが起きるのです。
          ──  [明治維新について考える/24]


≪画像および関連情報≫
 ●岩倉具視とは何者か──「近代日本人の肖像」より
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  京都生まれ。公卿、政治家。父は権中納言堀河康親。岩倉具
  慶の養嗣子。安政元年(1857)孝明天皇の侍従となる。5
  年(1858)日米修好通商条約勅許の奏請に対し、阻止をは
  かる。公武合体派として和宮降嫁を推進、「四奸」の一人と
  して尊皇攘夷派から非難され慶応3年(1867)まで幽居。
  以後、討幕へと転回し、同年12月、大久保利通らと王政復
  古のクーデターを画策。新政府において、参与、議定、大納
  言、右大臣等をつとめる。
        http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/23.html
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岩倉具視.jpg
岩倉 具視
posted by 平野 浩 at 04:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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