でしたが、天璋院の心からの懇願を受けて少しずつ慶喜に同情す
るようになり、1月20日に橋本実麗・実梁父子(さねあきら/
さねやな)に直書を送って、慶喜の謝罪を取りなしてくれたので
す。それが次の文であり、とても有名な一文です。
―――――――――――――――――――――――――――――
後世まで当家朝敵の汚名を残し侯こと私身に取り侯ては実に残
念に存じ参らせ侯。何とぞ私への御憐怒と思し召され、汚名を
雪(すす)ぎ、家名相立ち侯よう私身命にかえ願い上げ参らせ
候。ぜひぜひ官軍差し向けられ、御取りつぶしに相成り候わば
私方も当家滅亡を見つつながらえ居り候も残念に候まま、きっ
と覚悟致し候所存に侯。私一命は惜しみ申さず候えども、朝敵
と共に身命を捨て侯ことは朝廷へ恐れ入り侯ことと誠に心痛居
り侯心中御憐察あらせられ侯わば、私は申すまでもなく、一門
下僕の者共深く朝恩を仰ぎ侯ことと存じ参らせ侯。
──『静寛院宮御日記』より
──野口武彦著/中公新書2040
『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
静寛院和宮は、こう決意を表明しているのです。私としては、
徳川家に嫁いだ以上はどこまでも婚家に尽くす所存であり、それ
でもお取り潰しになるようであれば、私としても覚悟があるとい
うことをいっているのです。自分の命の保全と徳川家の取り潰し
の回避だけを目的とした慶喜の戦略は成功しつつあるのです。そ
ういう意味で慶喜という人物は天才的なところがあります。
さて、徳川慶喜が大阪城を投げ出して江戸に逃げ帰ってきたこ
とは、たちまち江戸中に伝わったのです。中でも江戸城内は上を
下への大混乱になったのです。この混乱ぶりについて福沢諭吉が
次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
慶喜さんが京都から江戸に帰って来たというそのときには、サ
ァ大変。朝野共に物論沸騰して、武家は勿論、長袖の学者も医
者も坊主も皆、政治論に忙しく、酔えるが如く狂するが如く、
人が人の顔を見ればただその話ばかりで、幕府の城内に規律も
なければ礼儀もない。平生なれば大広間、溜の間、雁の間、柳
の間なんて、大小名のいる所でなかなか喧しいのが、丸で無住
のお寺をみたようになって、ゴロゴロ箕坐を掻いて怒鳴る者も
あれば、ソット懐から小さいビンを出してブランデーを飲んで
いる者もあるというような乱脈になり果てた──。
──「福翁自伝」より/星 亮一・遠藤由紀子共著
『最後の将軍/徳川慶喜の無念』より/光人社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
しかし、慶喜はなかなかしたたかな男なのです。裏側では天璋
院の力を借りて静寛院和宮による朝廷工作を仕掛ける一方で、家
臣たちに対しては、恭順するのか反抗するのか、どちらともとれ
るような文書を配付して、例によって慶喜に何か策があるような
印象を与えることに成功しているのです。
次の文は、家臣に配付した慶喜の一文の最後の部分ですが、実
に見事な説得文といえます。
―――――――――――――――――――――――――――――
戦利あらず、この分にては夥多(かた)の人命を損じ侯のみな
らず、宸襟を寧んじたてまつるべき誠意も相貫かず、紛紜(ふ
んうん)の際、曲直判然相立たず候ては不本意の至り。ついて
は深き見込みもこれあり、兵隊引き揚げ、軍艦にて一先ず東帰
致し侯。追々申し聞け侯儀もこれあるべく候あいだ、銘々同心
りく力、国家のため忠節を抽(ぬき)んずべきこと
──『続徳川実紀』第五篇/野口武彦著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
ここで慶喜のいう「深き見込み」は、二条城を出て大阪城に移
るとき、それに大阪城を捨てて江戸に戻るときに発した「余に深
謀あり」と同じです。しかし、江戸では使っていないので、江戸
の家臣たちには効いたのです。
この一文は、慶喜の江戸城帰還は何かの策略なのではないかと
いう期待感を抱かせてしまう響きを持っていたのです。そうでな
ければ致命的な敗戦でもないのに大阪を捨てて殿が江戸に戻って
くるはずがないと都合のよいように解釈する者も多く、江戸城で
は反抗論が盛り上がっていたのです。
事実慶喜は何もしていなかったわけではないのです。とくにフ
ランス公使のロッシュとは頻繁に会い、あらゆる手を尽くして徳
川の生き残りを図ることで一致しています。ロッシュは、慶喜を
東日本を本拠とする徳川政権の最高指導者としてとらえ、薩長新
政府と和解することが日本の混乱を救う最善の策ということで意
見が一致してしていたのです。
そのとき主戦派を代表していたのは、陸軍奉行並の小栗忠順で
す。彼は兵を箱根峠と碓氷峠に出して官軍を迎撃し、海軍と連携
して新政府軍を殲滅する作戦を提案していたのです。
慶喜はこういう発言を聞いて強硬派の小栗忠順を罷免し、勝海
舟を海軍奉行並に任命し、陸軍総裁も兼務させたのです。これで
勝海舟は幕閣のトップに立ったことになります。その勝海舟とフ
ランス公使のロッシュの連携によって、無傷の旧幕府海軍をフル
に使って講和を進めるためであり、それをやれる人材は勝海舟し
かいないと慶喜は判断したのです。
もっともこの時点で慶喜は東日本を本拠とする徳川政権の最高
指導者の地位にこだわっておらず、自分の命と徳川家が存続でき
ればよいと考えていたのです。そして、勝ならばそれをきっと実
現させてくれると信じていたのです。
ここからが勝海舟の本当の活躍がはじまるのです。期待通り勝
海舟は、慶喜の信頼に見事に応えるのです。
── [明治維新について考える/23]
≪画像および関連情報≫
●小栗忠順の提案した戦略の価値
―――――――――――――――――――――――――――
大政奉還後も徹底抗戦を主張し、箱根での陸海共同の挟撃策
を提案したとされる。これは敵軍(新政府軍)が箱根関内に
入った所を迎え撃ち、同時に当時日本最強といわれた榎本武
揚率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃
で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅するというもの
であった。しかし慶喜は、この策を採用しなかった。後にこ
の策を聞いた大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃
我々の首はなかったであろう」と懼れるほどの奇策だった。
──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――
罷免された小栗忠順


