程度知っていたのでしょうか。
江戸城に鳥羽伏見の戦いの開戦の報がもたらされたのは6日の
夜のことです。そのとき江戸城はほとんど平静であり、近く終戦
の通知がもたらされるものと考えていたのです。しかし、皮肉な
ことに、その6日の夜には既に決着はついていたのです。
ところが、慶喜が11日に品川沖に着いたという報は、同日の
夜には早馬で江戸城に伝えられ、江戸城は騒然となったのです。
その時点では、慶喜は凱旋帰省ではなく、大勢の旧幕府軍を大阪
城に置き去りにしたまま、逃げ戻ってきたということが江戸城中
に伝わっていたのです。
実は慶喜がいきなり江戸城に入らず、浜御殿に籠ったのは、事
前に大奥の天璋院篤姫と対面して事情を報告し、朝廷に取りなし
の労をとってもらうよう懇願することだったのです。大奥には将
軍家茂の正室である静寛院和宮がおり、そのつてを利用すること
を考えていたのです。
しかし、再々の使いを出したにもかかわらず、天璋院はなかな
か慶喜に会おうとはしなかったのです。作家の宮尾登美子氏はそ
のときの状況を次のように書いています。
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戦いに負け、多くの将兵を残して一人だけ軍艦で逃走とは、と
篤姫は聞いて憤激に耐えず、居間で女中たちと話しあっていた
ところ、深更になって、滝山から慶喜の密使という者に引見賜
わりますように、というすすめがあった。男は慶喜の身辺を護
衛する者で、御簾の外から声をひそめ、「上さま明朝ご帰城遊
ばすご予定なれど、それ以前にひそかに天璋院さまにご対面の
儀お願い申上げたく、お許し賜わればただいまよりこちらにお
運び参らすべく」と述べるのを終りまで聞かず、篤姫は、「な
らぬ。対面など思いもよらぬ」とぴしゃりととどめ、「その方
早々に立ち帰り、この儀申し伝えよ」といいすてるなり立ち上
り、使者には背を向けた。 ─宮尾登美子著『天璋院篤姫』下
講談社文庫刊
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慶喜の使者は天璋院が断ったにもかかわらず、その日のうちに
3回やってきたのです。2回まではねつけていた滝山は慶喜の側
近に泣きつかれ、天璋院に対し、「何やら容易ならぬ事態に立ち
到っている様子であり、ぜひ御対面の儀を」と嘆願されるに及ん
で、天璋院は会うことにしたのです。
天璋院の前にあらわれた徳川慶喜は、羽織袴に威儀を正し、手
をついて敗戦の責任を詫びたのち、天璋院に対し、次のように述
べたのです。
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慶喜の説明は、このたびは薩藩の奸計に乗せられ、幕軍のほう
から戦端をひらいたために朝廷からは「慶喜の反状明白、始終
朝廷を欺き大逆無道」と決めつけられ、七日には逆賊追討令が
出されたというものであったが、事の起りはすべて薩藩にある
という表現と、また幕府が朝敵の汚名を着せられたという二点
は、どれほど篤姫を驚かせたことだったろうか。慶喜はさすが
に日頃の不遜な態度はみじんもなく、言葉も改めて、「就きま
しては天璋院さまのお力をもって、京都へ朝敵の称をご赦免お
ん願いありたく、同様の儀、静寛院宮さまにもたのみ上げ願い
奉ります」と深く頭を下げた。
──宮尾登美子著『天璋院篤姫』下
講談社文庫刊
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慶喜が急ぎ江戸に戻りたかったのは、朝廷とつながりのある静
寛院和宮の力にすがって朝廷に詫びを入れ、ご赦免を願うことに
あったのです。つまり、鳥羽伏見の戦いで徳川家が朝敵となった
時点で慶喜の考えたことは、自らの生き残りのために今何をすべ
きかしか頭になかったのです。
しかし、慶喜は静寛院和宮に対して不義理をしており、静寛院
は慶喜に不信感を持っていたのです。それは、新将軍になったと
きに、和宮は攘夷を中心とするいくつかの要望を文書にして送り
たびたび催促をしているのですが、慶喜はそれに対して一回も回
答をしていないのです。
しかし、徳川家を預かる天璋院としては、そのままにしておけ
ず、和宮のもとに唐橋を使いに出し、慶喜との対面を願い出たの
です。しかし、和宮はそれを拒否しています。天璋院は繰り返し
和宮を説得し、自分も同席するので、慶喜と会って欲しいと嘆願
し、ようやく慶喜と静寛院和宮との対面が実現したのです。その
さい慶喜は次の3つのことを依頼しています。
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1.現職を退いて隠居する決意
2.徳川家の後継者を決める件
3.戦乱を起こしたことの謝罪
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和宮はそのとき即答を避け、後から天璋院に対し、3について
だけ、直ちに朝廷に伝奏いたしますと返答しているのです。これ
については、1月17日に再度和宮は慶喜と天璋院の3人の席で
次のようにいっています。
―――――――――――――――――――――――――――――
かくなる事態ともなれば、上さまの進退と継嗣の件につきまし
てはもはや天下公のことと存ぜられます故、私の関わるべきこ
とにあらず、いまはただひたすら恐懼し、お詫び申し上げるの
が先決と考えられます。 ──宮尾登美子著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
この話し合いの結果、早急に朝廷へ嘆願の使者を立てることに
なり、土御門藤子が慶喜の嘆願書を持って上京することになった
のです。 ── [明治維新について考える/22]
≪画像および関連情報≫
●静寛院和宮について/「今歴史から元気をもらおう」より
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昭徳院とおくり名された家茂の遺骸が芝増上寺に葬られたの
は9月23日である。髪をおろした和宮には天皇から静寛院
宮という院号を賜った。ところが悲劇はさらに続く。12月
25日には兄君の孝明天皇が崩御されたのである。こうして
公武合体の象徴として降嫁した和宮は、ただひとり江戸城に
取り残された。このとき静寛院に手を差し伸べたのが天璋院
である。相次いで近親を亡くした者同士の相寄る魂でもあっ
た。「これからの大奥は私と宮で統べて行く」という天璋院
の言葉は、静寛院へのなによりの励ましとなったにちがいな
い。二人に共通していたのは徳川慶喜への反感である。天璋
院は、以前から慶喜に野心ありとみて陰謀の影を感じていた
し、和宮は兄の意を受けて攘夷を求める督促状を慶喜に送っ
ていたがことごとく無視されたことに不快感をもっていた。
http://www.data-max.co.jp/2008/09/15_7.html
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静寛院和宮


