2011年03月08日

●「江戸城に入らず浜御殿に籠る慶喜」(EJ第3011号)

 慶応4年(1868年)1月8日の夜、慶喜一行を乗せた開陽
丸が大阪湾を後にして紀州沖に出たとき、慶喜は自分の部屋とし
て占拠した艦長室に板倉を呼んで本心を明かしたのです。『昔夢
会筆記』には次のように出ています。
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 「江戸に帰著の上は、あくまで恭順謹慎して朝裁を待つの決心
 なれば、汝らもその心得にてあるべし」と語り聞かせたるに、
 伊賀守は「仰せさることながら、関東役人の見込みのほどをも
 承らざれば、いまだにわかにお請けもなりがたし」とあげつら
 いしかど、予は断然として一向恭順を主張したりき。
                 ──『昔夢会筆記』第十四
             ──野口武彦著/中公新書2040
       『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
 「自分は江戸に戻ったら抗戦などはしないで恭順する」──こ
の言葉にさすがの板倉は強硬に反対したのです。しかし、慶喜は
まるで駄々っ子のようになっていうことを聞かないのです。その
うえ側室まで船に連れ込んでいることが発覚し、板倉は困惑して
しまったのです。
 開陽丸は途中に暴風に遭い、遠州灘を漂流し、1月10日の早
朝に八丈島の近くまで達したのです。ここで相模灘へと舵を切り
午後6時40分に浦賀港に投錨したのです。
 浦賀到着に安堵した慶喜は、さすがに悪かったと思ったのだろ
うか、沢副艦長と乗組員に200両を与えてその労をねぎらった
といわれます。
 しかし、慶喜は浦賀では船を降りず、横浜にいるフランス公使
ロッシュに向けて使者を立てたのです。密書を届けるためです。
おそらく善後策を相談するためであろうと思われます。そして、
開陽丸は11日の早朝に浦賀港を出港し、午前8時に品川沖に達
したのです。
 ところが、慶喜が動かないので、ここまで供をしてきた家来た
ちは不審に思ったそうです。普通荒波に揺られて航海すると、一
日も早く陸地に降りたくなるものですが、慶喜は動かず、何かを
待っていたようなのです。
 結局慶喜の意思として、慶喜は12日に上陸し、浜御殿に入る
ということになったのです。なぜか、慶喜は江戸城に直接入ろう
とはしないのです。江戸城に入ることを非常に警戒していたよう
であったのです。
 実は徳川慶喜は、将軍になってからは一度も江戸城に入ってい
ないのです。旗本たちも気心がしれないし、身の安全に関しても
不安を覚えていたといわれます。
 ところで、浜御殿とは何でしょうか。浜御殿は、現在の東京都
港区にある浜離宮のことです。ここは、将軍家鷹狩りの場所だっ
たのですが、その後松平綱重の別邸となり、甲府浜屋敷または海
手屋敷といわれたのです。六代将軍徳川家宣がこれを改め「浜御
殿」と称し、景観を整え茶園・火薬所・織殿が営まれ、幕末には
石造洋館「延遼館」の建設が行われたのです。維新後宮内省所管
となり、園地を復旧し皇室宴遊の地に当てられ、名も「浜離宮」
と改められたのです。
 12日の早朝に慶喜は御庭海岸に上陸したのですが、供廻りが
揃うまで、しばらく松の御茶屋で休息していたのです。この近く
には海軍局があったのです。そのとき慶喜は、朝食を採っていな
いと聞いたので、軍艦奉行木村兵庫喜毅がビスケットを差し上げ
たという記録が残っています。
 やがて慶喜が江戸に戻ったという情報を聞いて、何人かの家臣
が駆け付けたのです。その中に勝海舟がいたのです。慶喜が来る
のを心待ちにしていたのは勝海舟だったといわれるのです。
 勝海舟は、そのときのことを「海舟座談」で次のように書いて
いるのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 皆は海軍局の所へ集まって、火を焚いていた。慶喜公は、洋服
 で、刀を肩からコウかけておられた。己(おれ)はお辞儀も何
 もしない。頭から、皆にそう言うた。「アナ夕方、何という事
 だ。これだから、私が言わない事じゃあない。もうこうなって
 から、どうなさるつもりだ」とひどく言った。「上様の前だか
 ら」と、人が注意したが、聞かぬ風をして、十分言った。刀を
 コウ、ワキに抱えて大層罵った。己を切ってでもしまうかと思
 ったら、誰も誰も、青菜のようで、少しも勇気はない。かくま
 で弱っているかと、己は涙のこぼれるほど歎息したよ。
         ──『海舟座談』/野口武彦著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 それまで慶喜は勝海舟を見限り、相当冷遇してきたのですが、
困ったときの海舟頼みで慶喜は海舟に会いたかったのです。海舟
は口は悪いが、徳川家への忠誠心は高かったからです。それに海
舟は、外国との交渉を含めて折衝力が強く、この徳川家の難事に
対応できる最適の人材であったことは確かです。
 浜御殿に入った慶喜に対して、浜御殿側の対応は相当冷たかっ
たようです。その日の夜、布団はないというので、慶喜は2枚の
毛布にくるまって眠ったそうです。その当時その毛布は「フラン
ケン」と呼ばれていたそうです。これは「フランネル」のことで
あるといわれています。
 翌日大奥に「布団を出すよう」と掛け合ったところ、次のよう
な冷たい返事が返ってきたのです。信じられない話ですが、慶喜
に対する江戸城大奥の雰囲気は相当よくなかったのです。
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  御倹約を仰せられましたので御用命の夜具はございませぬ
               ──野口武彦著の前掲書より
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          ──  [明治維新について考える/21]


≪画像および関連情報≫
 ●「浜御殿」についての情報
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  天璋院様の関係では、「天璋院篤姫」の小説中にも、家茂様
  ・和宮様と共に、この浜御殿を訪れた時の事が描かれていま
  すよね。江戸風(武家風)・京風(公家風)で嫁姑の争いも
  天璋院様が病気の和宮様を見舞った辺りから雪解けになり、
  あの七夕の夜に和宮様側からも打ち解けられてその秋には、
  浜御殿へ三人お揃いで清遊に来られたのでした。この時の様
  子は後の時代(明治)になってから、勝海舟がこの日の事を
  伝えており、天璋院様ご一家としてもつかの間の幸せを味わ
  えた時期だったのかも知れません。
        http://tensyouin.fc2web.com/hamagoten.htm
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浜御殿台場跡.jpg
浜御殿台場跡
posted by 平野 浩 at 04:14| Comment(3) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私には卑怯惰弱な慶喜の姿が卑怯惰弱な昭和天皇の姿とぴったりと重なり合って見えます。菅首相というよりも。
Posted by 東行系 at 2011年03月09日 00:37
室賀伊予守は慶応3年4月27日死亡しています
Posted by たぬき at 2011年03月18日 11:42
室賀伊予(竹堂)が亡くなったのは明治19年10月です。慶応3年に亡くなったのは伊予守の妻ですね。
Posted by 通りすがり at 2012年10月31日 12:29
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