げ出したということは歴史的な事実として有名な話です。ところ
が、その詳細について知る人は少ないと思います。
しかし、その詳細を知っておくことは、270年間も続いた徳
川幕府がそのとき既にボロボロになっていた事実がよくわかると
思うので、野口武彦氏の著書を中心にご紹介します。
慶応4年(1868年)1月6日の午後9時頃に慶喜の一行は
八軒家船着場になんとかたどりついたのです。八軒家船着場は、
現在の大阪市中央区の旧淀川(大川)左岸にある船着場のことで
す。慶喜は徳川家の軍艦開陽丸に乗るつもりでこの船着場にやっ
てきたのです。
その日は大阪湾には、開陽、富士山、蟠竜、順動、翔鶴の5隻
の軍艦が西宮海岸近くに停泊中だったのですが、真っ暗闇なので
どこに船がいるかわからないのです。それにイギリス、アメリカ
フランスの軍艦も大阪湾に入り、天保山沖に集結して錨を下ろし
ていたのです。彼らは重大な関心を持って日本の内戦──鳥羽伏
見の戦いの戦況がどうなるかを見守っていたのです。なぜなら、
どちらが勝利するかによって、イギリス、アメリカ、フランスの
利害が大きく異なってくるからです。
慶喜たちを乗せて八軒家船着場から漕ぎ出した苫船は、まっす
ぐ天保山沖に向かったのです。そして、アメリカの砲艦イロクォ
イ号に漕ぎ寄せ、彼らはイロクォイ号に乗り込んだのです。
慶喜が共に命じた9人のなかに外国奉行の平山敬忠がいます。
慶喜はあらかじめ平山に命じ、米国公使のファルケンブルグから
イロクォイ号の艦長への紹介状を入手させていたのです。何とい
う周到な準備でしょうか。こういう点について慶喜はまさに天才
的なのです。自分がどのようにして江戸に帰るか、そのすべてを
計算していたのです。
1月6日の夜、開陽丸は敵軍の侵入に備えて臨戦態勢にあった
のです。1月7日の午前4時頃、米艦のイロクォイ号のボートが
開陽丸に近づき、次のことを告げたのです。このとき米艦の使い
と応対したのは、副艦長の沢太郎衛門です。艦長の榎本武揚は船
を離れ、大阪城に出かけて留守だったのです。
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今当艦に高貴の方が乗船しておられるので、速やかにこちらに
お移ししたい。ただちに当艦におこし願いたい。
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何はともあれ沢副艦長は、水兵12名を連れてイロクォイ号に
行き、艦長室に入って仰天したのです。慶喜公をはじめ、会桑の
両藩主などのえらいさんがズラリといるではないか。
とりあえず、沢は慶喜主従を開陽丸に移したのです。何しろ狭
い軍艦に10人もの、しかもえらいさんが乗り込んできたから大
変です。艦長室をはじめ士官部屋はすべて占拠され、乗組士官は
すべて蒸気室に追いやられたのです。乗組士官にとって迷惑なこ
とこのうえなしです。
それだけではないのです。船に乗り込んだのは慶喜ら10人だ
けでなく、後から大阪の川口から売り船でやってきて、開陽丸に
乗り込んだ者がいたのです。側用人室賀伊予守とその他奥向きの
人々(人数は不明)だったのです。その中には慶喜の側室お芳が
いたとされています。それも堂々と乗り込んできたのではなく、
側用人室賀伊予守の付き人のようにして、こっそりと乗り込んだ
ものと思われます。慶喜はここまで段取りを考えて行動している
のですが、側室まで乗船させるとは・・・。慶喜には戦争をして
いるという感覚がまるでないのです。
しかし、徳川慶喜は旧幕府軍の総司令官らしい一面も少し見せ
ています。せっかく軍艦に乗ったので、「戦争操練」を見せてく
れと沢副艦長にいっています。詳しくはわかりませんが、「戦争
操練」というのは、軍艦が海戦をするに当って準備を整える乗務
員の行動のすべてです。
沢副艦長は命を受けて戦争操練を約20分間やって見せたので
す。慶喜公と会桑両藩主、老中の面々はそれに見入ったといいま
す。そして、老中の板倉を通じて慶喜の言葉が乗組士官に次のよ
うに伝えられたのです。
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大砲の操練は力強く揃い、敏速であった。満足である。終了
してよし ──徳川慶喜
──野口武彦著/中公新書2040
『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
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慶応4年(1868年)1月8日、午前8時過ぎのことです。
慶喜から厄介な要求が板倉を通じて出されたのです。それは「少
しでも早く江戸に戻りたいので船を出航させよ」というものだっ
たのです。慶喜からみれば当然の要求ですが、沢副艦長としては
とても受け入れられない命令なのです。
沢としては板倉に対し、恐れ多いことであるが、慶喜公の要求
は次の理由によって受け入れられないと申し出たのです。
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1.本艦は幕府艦艇の旗艦で、全艦の指揮を執る立場にある
2.現在艦長の榎本武揚が艦を離れており、指揮官がいない
3.旗艦が突然いなくなると、艦隊は混乱し収拾がつかない
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これに対し、板倉は幕府軍艦・富士山丸の艦長望月大象を開陽
丸に呼び、富士山丸に旗艦を命じ、沢副艦長に対しては開陽丸が
江戸への航海中は艦長代理を命ずると申し渡したのです。何しろ
最高指揮官の慶喜がいるので何でもできるのです。沢は大阪湾を
周回して時間を稼ぎ、艦長の榎本武揚の戻るのを待ったのですが
成功せず、やむなく船首を苫ヶ島海門(大阪湾出口)に向け、開
陽丸を江戸に向けて出航させたのです。
── [明治維新について考える/20]
≪画像および関連情報≫
●幕府軍艦「開陽丸」についての情報
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開陽丸は、幕末期に江戸幕府が所有していたオランダ製軍艦
である。開陽丸は江戸大老井伊直弼の意思を継いだ安藤信正
(信睦)によってオランダより導入された江戸幕府の軍艦で
ある。オランダで造艦され1867年(慶応3年)3月25
日に横浜へ帰港した。最新鋭の主力艦として外国勢力に対す
る抑止力となることが期待されたが、徳川軍艦としてわずか
1年数ヶ月、1868年(明治元年)11月15日、蝦夷・
江差沖において暴風雨に遭い、座礁・沈没した。
──ウィキペディア
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●「開陽丸」の写真出典/ウィキペディア
1868年当時の開陽丸


