連れて行った幕臣は次の9名です。
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老中・ 酒井忠惇 目付・ 榎本道章
老中・ 板倉勝静 医師・ 戸塚文海
外国奉行・平山敬忠 会津藩主・松平容保
大目付・ 戸川忠愛 桑名藩主・松平定敬
若年寄・ 浅野氏祐
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この中で慶喜の側近中の側近といわれるのは、老中の酒井忠惇
と板倉勝静の2人です。実は慶喜はこの2人に対しても、江戸に
行くことは告げていますが、江戸で朝廷に恭順するということは
告げていないのです。そのため酒井と板倉は、殿が江戸に戻って
新政府軍に対し、再起を賭ける戦いをすると思っていたのです。
もうひとつの重要なポイントは、慶喜にとって最大の味方であ
り、頼れる後ろ盾である会津藩と桑名藩の藩主を同道させている
ことです。しかし、この2人に対しても江戸に行くことを最後の
ぎりぎりまで知らせていないのです。
もし、知らせると、会津藩士から猛烈に反対されるのを恐れた
のです。とくに会津藩の武勇をもって鳴る佐川官兵衛あたりにで
も知られるとうるさいことになる──そういうわけで慶喜は慎重
を期したのです。
それでもぎりぎりになって、慶喜は桑名藩主松平定敬を通して
松平容保に計画を伝えたのです。顔色を変えた容保は、慶喜に対
し、思いとどまるよう説得したのですが、慶喜は聞く耳を持たず
最後には「主命として東下への陪従を命ずる」と強く命令されて
しまったのです。
このことを人を介して知らされた会津藩士の浅羽忠之助は、次
のように主君容保に説いたのですが、聞き入れてもらえなかった
といいます。
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このたびの鳥羽伏見の戦闘で、わが会津藩の兵士は本当に勇敢
に戦い、非常に多くの者が死傷しているのです。そういう兵士
たちを残して、主命とはいえ殿一人が江戸に行かれるのは絶対
にあってはならないことです。何の顔(かんばせ)あって、将
士に向き合うおつもりか。
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しかし、容保は「主命である」というだけで、聞き入れなかっ
たのです。このことは会津藩士と一体になって戦った桑名藩士に
とっても同様の思いであったのです。
本気で鳥羽伏見の戦いを戦った会桑藩士からみると、大阪城は
天下の名城であり、この城を捨てて江戸に退くなどまさに狂気の
沙汰であったのです。
大阪城は堀は深く、石垣は高く、堅固な大砲陣地を有しており
しかも兵糧は山ほどある──攻める方からすると、難攻不落の城
なのです。しかも、大阪湾には旧幕府軍の軍艦5隻が集結してお
り、既に薩長の軍艦はすべて駆逐しているのです。海戦において
は何も負けていないのです。
したがって、もしこの城にこもって持久戦に持ち込めば、数ヶ
月は十分耐えられるのです。こうして持ちこたえていると、各藩
は動揺し、天下の情勢はどうなるかわからなかったのです。
実際に新政府軍も鳥羽伏見の戦いでは勝利したものの、多くの
兵士を失っており、大阪城に籠城されたら簡単には落ちないとい
うことはわかっていたので、大阪までは攻め上らず、兵を休めて
じっくりと作戦を練っていたのです。まさか、慶喜が大阪城を捨
てて逃げるとはまるで考えていなかったのです。
しかし、それにしても慶喜をはじめとする重役9人はどのよう
にして大阪城を脱出したのでしょうか。何しろ大物10人の脱出
であり、誰にも気づかれずにそれを行うことは極めて困難です。
このことについて書いある史料はないので、想像するしかないの
ですが、おそらく小船で堀を経由して城から脱出できる通路が存
在したのではないでしょうか。
テレビ映画の『暴れん坊将軍』では、吉宗が井戸から小船で脱
出するシーンを何回も見ていますが、城には万一の場合の脱出に
備えてそういう仕掛けを用意しているものです。なぜなら、実際
に彼らは見事に脱出しており、完全に家臣は出し抜かれてしまっ
ているからです。今後の作戦について慶喜の意向を伺いに参上し
た滝川具挙が誰もいないことに気がつくまで誰一人として慶喜ら
10人の脱出に気がついていないからです。
組織のリーダーがブレた言動をすると、組織に緊張感がなくな
り、威令が行き届かなくなるものです。それを端的に示したのは
鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍を大敗北に導いた戦犯の3人の責任回
避です。戦犯の3人とは次の人物です。
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陸軍総督 大河内正質
陸軍副総督 塚原昌義
陸軍奉行 竹中重固
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慶喜としては、これら3人に対し江戸行きの共に加えないこと
によって「責任を取って切腹せよ」としたつもりだったのですが
3人には一向に通じなかったのです。
通じなかったというより、わかっていて無視したというのが本
当のところでしょう。彼らは切腹どころがさっさと江戸に引き揚
げているからです。
このあたり選挙に大敗しながら、誰も責任をとらずそれらの戦
犯が依然として要職を占めている民主党とそっくりです。心ある
民主党支持者はこの一事をもって民主党への信頼感を喪失させて
いるはずです。しかし、それが当の本人にはまるでわかっていな
いのです。 ── [明治維新について考える/19]
≪画像および関連情報≫
●大阪城についての情報
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江戸時代に入って元和6年(1620)、徳川幕府は大坂城
の再建にのり出した。10年の歳月と幕府の威信をかけて再
建された大坂城は、全域にわたる大規模な盛土と石垣の積み
上げ、堀の掘り下げが行われ、天守閣も15m高くなるなど
豊臣秀吉が建築したものとは全く異なったものとなった。し
かし、この天守閣も寛文5年(1665)の落雷で焼失した
まま再建されず、その他建物も、大手門や多聞櫓などの一部
を残して明治維新(1868)の際の動乱で焼失してしまっ
た。 http://www.burari2161.fc2.com/oosakajyou.htm
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大阪城


