2011年03月03日

●「敵前逃亡を図る徳川慶喜」(EJ第3008号)

 藤堂軍の裏切りで新政府軍は奮い立ったのです。そして進撃を
開始したのです。こうなると、崩れるのは早いものです。旧幕府
軍は退却し、難攻不落といわれた橋本陣地はあっという間に落ち
てしまったのです。こうなると、誰も止められないのです。
 慶応4年(1868年)1月6日、午後4時頃に旧幕府軍の司
令官3人が橋本陣地から退却したのです。そして、枚方まで落ち
て、そこで会議を開いています。次の3人の司令官です。
―――――――――――――――――――――――――――――
          1.総督大河内正質
          2.竹中丹波守重固
          3.滝川播磨守具挙
―――――――――――――――――――――――――――――
 会議の目的はここで踏みとどまるべきかどうかの判断です。そ
れを判断するために、竹中重固と滝川具挙は、会津藩の内藤介右
衛門と一緒に山の上に上ったのです。そのとき眼下に見えたのは
おびただしい数の旧幕府軍の敗走兵が守口方面に続々と引き上げ
ている光景です。それは旧幕府軍の敗北を改めて印象付けるもの
だったのです。日は既に暮れていたのです。
 失望落胆して山を降りた竹中重固と滝川具挙は、枚方を後にし
て引き上げる決断をします。そして守口に着いたとき、若年寄の
永井尚志が慶喜の書簡を持って待っていたのです。書簡には次の
ようにあったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
  考えていることがある。諸隊すべて大阪に引き揚げよ。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「考えていることがある」というのは慶喜の得意の言葉です。
二条城から大阪に引き揚げてくるときも「余に深謀あり」といっ
ています。必ずしも深い考えなどないのに、思わせぶりな発言を
するのです。
 しかし、今回は慶喜として考えていることは本当にあったので
す。しかし、それは今後の徳川家全体の問題というよりも、自分
が助かる策を練っていたのです。こういうところに、このときの
徳川慶喜と現在の内閣総理大臣菅直人氏とを重ね合わせて見てし
まうのです。2人は驚くほどよく似ています。
 その日、若年寄陸軍奉行の浅野美作守氏祐は慶喜の命により、
1月2日に幕府軍艦順動に乗って、6日に大阪に着いたばかりだ
ったのです。航海中に浅野美作守は鳥羽伏見の戦いのことを知ら
され、しかも敗北という情報に仰天したのです。江戸では鳥羽伏
見の戦いの情報は入っていなかったようなのです。
 早速大阪城で慶喜に拝謁を許されると、慶喜は浅野に次のこと
告げたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 委細の事ほ伊賀(板倉)に聞きつらん、時態日々に切迫して、
 過激論者暴威を極め、制御の道もあらばこそ、ついに先供の間
 違いより伏見の開戦となり、錦旗に発砲せりとそしられて、今
 は朝敵の汚名さえ蒙りたれば、余が素志は全く齟齬して、また
 如何ともする能わず。さればとてこの上なお滞城するときは、
 ますます過激輩の余勢を激成して、いかなる大事を牽き出さん
 も計られず、余なくば彼等の激論も鎮まりなん、ゆえに余は速
 やかに東帰して、素志の恭順を貫き、謹みて朝命を待ち奉らん
 と欲するなり、秘めよ、秘めよ。 『徳川慶喜公伝史料編』三
             ──野口武彦著/中公新書2040
       『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
 要するに、慶喜はこういったのです。手違いによって朝敵の汚
名を受けて困惑している。このまま余が大阪城に残っていると、
過激論者を増やして収拾がつかなくなる。自分さえいなければ自
然に収まると思うので、余は江戸に戻り、朝命を受けようと思っ
ている。しかし、このことは絶対に誰にも言ってはならぬぞ。心
して秘めよ、と。
 思いもかけぬことを慶喜にいわれ、困惑して御前を引き下がる
と、浅野美作守は老中の板倉伊賀守に呼び止められ、一通の書類
を渡されたのです。その書状には次の記述があったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   酒井雅楽頭      供  浅野美作守  随意
   板倉伊賀守      供  平山図書頭   供
   松平(大河内)豊前守 残  竹中丹後守   残
   永井主水正      供  塚原但馬守   残
             ──野口武彦著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 この書状の意味することは何でしょうか。「供」は慶喜に供を
して江戸城に戻る人、「残」は大阪城に残る人をあらわしている
のです。そうすると、松平豊前守、竹中丹後守、塚原但馬守の3
人は、鳥羽伏見の戦いに参加しており、そのため「残」となって
いるのです。
 もうひとつはっきりしていることは、慶喜は自分の供をして江
戸に行くメンバーにしか、江戸行きのことはいっていないという
ことです。つまり、慶喜のハラはこういうことです。今回の戦争
を引き起こし、あまつさえ大敗させた人間は、大阪城に残って善
処すべしというわけです。要するに、切腹して責任を取れといっ
ているのです。
 しかし、「残」のマークのついた人間は誰ひとりとして切腹な
どしなかったのです。永井尚志だけは「供」とあるのに大阪城に
残ることを決め、総督の松平豊前守の帰城を待って、伏見の行き
違いなどの真相を確かめ、場合によっては城を枕に切腹するとし
て、慶喜の供を断っているのです。ちなみに「随意」──どちら
でもよいとされた浅野美作守は慶喜の供をして江戸城に行くこと
にしたのです。
          ──  [明治維新について考える/18]


≪画像および関連情報≫
 ●徳川慶喜の敵前逃亡について
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  鳥羽伏見の戦いの最中に大坂から江戸へ退去したことは「敵
  前逃亡」と敵味方から大きく非難された。この時、家康以来
  の金扇の馬印は置き忘れたが、お気に入りの愛妾は忘れずに
  同伴していた、と慶喜の惰弱さを揶揄する者もあった。しか
  しこの時、江戸や武蔵での武装一揆に抗する必要があったこ
  とや、慶喜が朝敵となったことによって諸大名の離反が相次
  いでおり、たとえ大坂城を守れても長期戦は必至で、諸外国
  の介入を招きかねなかったことから、やむを得なかったとい
  う意見もある。           ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

大阪城での徳川慶喜.jpg
大阪城での徳川慶喜
posted by 平野 浩 at 04:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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