戦いの最後の戦いがはじまったのです。最初に簡略地図に基づい
て、まず川について述べておきます。
宇治川は淀で桂川を合流させて淀川になります。さらに淀川は
その下流で鈴鹿山脈の水源地から北上してきた木津川と合流し、
大河となって京都盆地から大阪平野へ奔流となって流れていくの
です。まず、川の流れを簡略地図で確認してください。
京都には山崎地区と呼ばれる地域があります。京都と大阪を結
ぶJR線に乗ったことがある人なら、車窓からサントリーの山崎
工場の特徴のある看板を見た人は多いでしょう。新幹線の車窓か
らも見えるかもしれません。あの一帯が山崎地区であり、豊臣秀
吉が明智光秀を討った古戦場なのです。
山崎地区は、北を西山山系の天王山、東南を生駒山脈系の北端
の男山に挟まれた地峡です。旧幕府軍は、その山頂に石清水八幡
宮が鎮座する男山の東西に分かれて布陣したのです。
西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方歳三率いる新選
組の主力などを擁する幕府軍の本隊が陣を張ったのです。東に男
山、西に淀川を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ旧幕府軍の方
にあったといえます。
1月6日の早朝、新政府軍──第二奇兵隊、第一奇兵隊が中心
──旧幕府軍が木津川にかかる淀大橋を焼き落としているので、
渡河作戦を仕掛けたのです。しかし、旧幕府軍は昨日の敗戦で相
当戦意が低下していたのです。
新政府軍が川を渡り出すのを何をするでもなく、傍観していた
からです。一般的に渡河作戦は川の中央に来るまでに何か手を打
つのが戦術の常識であるのに何もしなかったのです。明らかに指
揮官不在です。
新政府軍は渡河を終えると、散兵して攻撃に出たところ、旧幕
府軍は一斉に退却をはじめたのです。そのため八幡方面は簡単に
制圧できたのです。しかし、橋本陣地(簡略地図参照)では、旧
幕府軍の主力が守っており、新政府軍は攻めあぐんだのです。そ
れもそのはずで、ここを落とされると、後は大阪まで引くしか方
法がなく、ここが最後の関門であったからです。
ところが思ってもみないことが起こり、それから旧幕府軍は総
崩れになってしまうのです。一体何が起こったのでしょうか。
実は淀川の対岸の山崎関門には津藩藤堂家32万石が守備して
いたのです。藤堂家は外様大名ではあるものの、徳川家の恩顧が
深い大名の一人でもあったのです。そのため、旧幕府軍としては
藤堂軍を最も重要な場所に配備していたのです。簡略地図を見る
とわかるように、山崎関門が堅固であると、橋本陣地は容易には
崩せなかったと思われます。
ところが、その藤堂家が裏切ったのです。6日の昼頃にいきな
り、その藤堂陣地から次々と砲弾が飛んできたのです。何しろ至
近距離からの砲撃であり、旧幕府軍は愕然としたのです。直ちに
男山からは桑名軍、生駒隊も小浜隊も砲撃で応戦する──これは
敵が迫るなか、同志討ちをやっているのです。これでは勝てるは
ずがないのです。現在の菅政権と同じです。
ところで藤堂家といえば、藩祖である藤堂高虎の名前が有名で
すが、この高虎は「裏切りの名人」といわれているのです。戦国
時代を生き抜いた人であり、次の言葉が有名です。
―――――――――――――――――――――――――――――
七度、主君を変えねば侍とはいえぬ/藤堂高虎
―――――――――――――――――――――――――――――
それはさておき、藤堂家としては、最初から裏切るつもりはな
かったのです。しかし、同家はあくまでこの戦いは「薩長と会桑
の私闘」と位置付け、率先してはことに当らない──つまり、中
間派であったのです。
しかし、津藩内ではしだいに「徳川家の危機であり、支援する
必要がある」という雰囲気になっていたのです。そこで、3日の
夜に藤堂軍の重役2人が淀の本営で、若年寄塚原但馬守に会い、
相談しているのです。
そのとき、できた約束は、「旧幕府軍が山崎に向けて進軍され
るのであれば協力する」ということであったのです。3日の段階
ではまさか旧幕府軍が新政府軍に淀本営を突破されるとは藤堂軍
も考えていなかったと思われます。
しかし、ここまでみてきたように、状況は一変しています。そ
れに新政府軍も藤堂家に対して手を打っていたのです。4日の夜
遅く長州藩から使者が来て、藤堂軍の意思を確かめています。そ
こでかねてからの藤堂家の考え方である「薩長と会桑の私闘」と
いうスタンスを伝えると、「勅命であればどうか」と聞かれたの
で、「勅命であればやむを得ず」と答えているのです。つまり、
この時点で藤堂家のハラは決まっていたのです。勝ち馬に乗ると
いうことです。
5日に旧幕府軍は淀本営を明け渡し、八幡に後退したのですが
藤堂軍は動かなかったのです。そこで、塚原但馬守が船で山崎関
門に行き、兵を駐屯させて欲しいと申し出たのですが、冷たく断
られてしまったのです。その塚原と入れ替わりに京都から勅使が
やってきたのです。そして勅命が通達されています。その文面は
次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
官兵差し向けられ候あいだ、山崎関門の義、枢要の地に候条、
官軍救応・守関の大任、勤労仰せ付けられ候こと
──野口武彦著/中公新書2040
『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
勝負ありということです。もっと早く藤堂家を取り込んでおけ
ば、こういうことにはならなかったはずです。どのように考えて
も大きな戦略ミスであったと思います。
── [明治維新について考える/17]
≪画像および関連情報≫
●津藩(藤堂家)について
―――――――――――――――――――――――――――
戦国時代の津は安濃津と呼ばれ、長野工藤氏の支配下にあっ
た。永禄11年(1568年)、織田信長の伊勢侵攻で長野
工藤氏は信長に降伏し、信長の弟・信包を養子に迎えて当主
とした。信長没後、信包は豊臣秀吉に仕え、文禄3年に2万
石を削減されて近江に移封された。代わって、富田知信が5
万石で入る。知信は慶長4年(1599年)に死去し、後を
子の信高が継いだ。信高は徳川家康に接近し、家康主導によ
る会津往伐に参加し、石田三成ら西軍が挙兵すると本国に戻
り、西軍の伊勢侵攻軍である毛利秀元や長束正家と戦い、敗
れて高野山に逃れた。関ヶ原の戦い後、家康は信高を2万石
加増の7万石で安濃津城主として復帰させた。慶長13年8
月24日、信高は伊予宇和島藩に移封された。
──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――
サントリー/山崎工場


