ておきましょう。
伏見から淀までは、宇治川沿いの狭い道が長く続いています。
この道は「淀堤」と呼ばれる堤防道なのです。宇治川の左岸には
「巨椋池(おぐらいけ)」という巨大な池が当時あったのです。
この池は、現在「池」と称する最大の湖沼である湖山池よりも広
かったのです。そして右岸には横大路沼をはじめとする大小の沼
がたくさんあるのです。その堤防道を南下すると、「千両松」と
いうところがあります。これについては、昨日の簡略地図を参照
していただきたいと思います。
新政府軍は、長州兵二中隊を先頭にして、薩摩藩小銃隊が続い
たのです。旧幕府軍は態勢を立て直して淀から進軍し、路上に
大砲を構えて迎撃の体制をとったのです。両軍が激突したのは、
千両松の周辺だったのです。
これらの沼や池には茂みがいくつもあり、そこに会津兵の槍隊
が潜んでいて近くに来ると突然現れ、一斉に槍を振るって突撃し
てくるのです。何しろ道が堤防道で狭いので、突然攻められると
逃げるところがない──そのため、新政府軍は多くの犠牲者が出
すことになったのです。
長州兵には大砲が配備されていなかったので、鳥取藩の大砲隊
が支援したのです。しかし、旧幕府軍の砲火もすさまじく、砲車
が被弾して役に立たなくなると、今度はそれに代って薩摩12番
隊が砲撃するという激戦が長時間展開されたのです。
それに堤防道は狭いので続々と兵士が長い列を作り、次々と繰
り出してきたのです。途中で敵が現れても、後ろがつかえている
ので、逃げることができず、前進するしかないのです。その現場
にいた人物は次のように語っています。
―――――――――――――――――――――――――――――
それが淀川堤を往ったのがその時で、その時分はもう因州の兵
も来ていれば、だいぶ人数が殖えておった。ところがあそこは
一方が河で、一方が沼やら薮やらで道は一本筋というので長州
兵も因州兵もドン々鉄砲玉は来る、逃げようというても逃げら
れぬ、それで仕方がないドシドシ進んだ。石川厚狭介などの殺
されたのは追い駈ける拍子に薮の小さいのが土手に沢山あって
その中から槍を突き出されて突き殺された。会津もあの時は非
常に働いたものでたった一人残してあとはみんな死んでしまっ
た。沼へ飛び込んで咽を突いたり何かしているのがあった。
(林友幸「伏見鳥羽方面」『維新戦役実歴談』)
──野口武彦著/中公新書2040
『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
1月5日午後2時頃になって新政府軍は宇治川にかかっている
淀小橋に達しつつあったのです。この橋を渡ると淀の市街地であ
り、旧幕府軍の本営は目の前です。
旧政府軍の本営では、滝川播磨守具挙が何とか新政府軍を淀小
橋で食い止め、淀城に入って態勢を立て直すしかないと判断して
いたのです。そこで、滝川播磨守は淀城の大阪口に出向き、城内
に入ろうとしたところ、拒否されてしまったのです。強引に入ろ
うとすると、そこを守っていた兵士が一斉に槍を構えて槍ぶすま
をつくり抵抗したのです。
そこで滝川播磨守は、大声で次のように叫んで、馬に乗って南
の方に走り去ったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
淀藩我らを裏切ったり。彼らは官軍ぞ。これ敵なり
―――――――――――――――――――――――――――――
どうやらそれは合図であったようです。旧幕府軍の兵士が淀市
内を駆け巡り、一斉に城下に火を放ったのです。ちょうど西風の
強い日であったので、あっという間に火焔が広がり、城下はこと
ごとく焼け落ちてしまったのです。
簡略地図を見るとわかるように、宇治川は南下すると木津川に
分かれるのですが、宇治川には淀小橋が、木津川には淀大橋がか
かっています。そこで、滝川播磨守はその両方の橋を焼いて進路
を阻み、さらに南の橋本陣地において陣容を立て直す計画を立て
たのです。
しかし、いったん崩れた軍はもはや立ち直すことはできなかっ
たのです。新政府軍は淀小橋が焼かれたので、船を使って宇治川
を渡り、大軍で淀城に押し寄せたのです。しかし、淀城側はあっ
さりと開城し、新政府軍側に次のように懇願したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
これより先、淀藩より吾が藩に掛け合い候趣は「淀藩において
は賊徒に与し候所存さらにこれなく、よって会桑らより城に入
れ候様再三承り候えども、一人も相入れず候あいだ、城の儀は
焼き払い相成らざる様相願い候」。 (『平田九十郎日記』)
──野口武彦著/中公新書2040
『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
その卑屈なぐらいの恭順さに新政府軍は企みはないと判断し、
城には一個小隊を残して引き上げ、他は焼け残った民家に宿泊し
たといいます。そして旧幕府軍は、大混乱のうちに撤退したので
す。これにて、旧幕府軍は鳥羽、伏見ともに敗退したのです。
鳥羽伏見の戦いにおいて、第3日目は錦の御旗によって旧政府
軍は圧勝したといわれるのですが、戦っている旧幕府軍の兵士は
そんな旗はみていないのです。しかし、新政府軍兵士のモラール
が向上したことは確かであり、その差は極めて大きいものがあっ
たと思います。
さらにもうひとつ、錦の御旗を立てたことで幕府は朝敵になり
今まで幕府を支えてきた議定や参与がそれ以上幕府に肩入れでき
なくなったことです。淀城の開城も幕府が朝敵になったことで実
現したのです。 ── [明治維新について考える/16]
≪画像および関連情報≫
●淀城について
―――――――――――――――――――――――――――
1723年以降は、春日局の子孫である稲葉氏十万二千石の
居城となった。稲葉家は西国に睨みを利かせる畿内随一の藩
として幕府内で要職を占めた。しかしその所領は山城のほか
に摂津・河内・近江・下総・越後などに分散していて、山城
にあった所領は2万石にも満たなかったと言われている。こ
のため、藩政においても財政基盤の脆弱さから財政は苦しか
った。幕末の12代藩主正邦は老中であり佐幕派とされる。
そして佐幕急進派の藩主は、第一次・第二次長州征伐への淀
藩士派兵を決定するが、穏健派の藩首脳部の反対によって断
念するという事態になった。
http://www.3kids-cg.com/text/yodo.html
●復元「復元・淀城」/チーム・デジタル大工
http://www.3kids-cg.com/yodo.html
―――――――――――――――――――――――――――
巨椋池/大池


