2011年02月28日

●「鳥羽街道の戦いで旧幕府軍の敗退」(EJ第3005号)

 野口武彦著の『鳥羽伏見の戦い』を読んでいると、興味深い事
実が明らかになってきます。EJでは、開国に当って軍隊の近代
化を図るため、幕府は後装式シャスポー銃を持つ「フランス伝習
隊」を作り、フランス人教官による訓練を相当受けていたが、そ
の伝習隊は、鳥羽伏見の戦いには参加していないという前提(E
J第3001号参照)で述べてきています。これが歴史の定説に
なっているといわれるからです。
 「後装式」というのは、銃身の後部から弾丸を装填する方式の
銃であり、1分間に6発以上発射できる、当時としては最先端の
銃なのです。しかし、野口武彦氏によると、歴史の定説は誤って
おり、伝習隊の一部はシャスポー銃を装備して鳥羽伏見の戦いに
参加している主張しているのです。なぜ、そのことに拘るのかと
いうことについて、野口氏は次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が負けたのは、銃砲の性能が悪かっ
 たからだという俗説を訂正しておきたいからである。
             ──野口武彦著/中公新書2040
       『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
 さて、戦闘第3日目の慶応4年(1868年)1月5日──新
政府軍は、次の3つに分かれて進撃を開始したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
        1.鳥羽街道
        2.山崎街道──桂川左岸
        3.伏見街道
―――――――――――――――――――――――――――――
 目指すのは淀にある旧幕府軍の本営です。なお、淀には淀城と
いう城があり、そこが旧幕府軍の本営という説があるのですが、
どうやらそれは違うようです。
 淀城は、当時は稲葉美濃守正邦10万2000石の居城であっ
たのです。鳥羽伏見の戦いの当時、城主の稲葉美濃守は老中職に
あるため、江戸に滞在していたのです。現在の京都府京都市伏見
区淀本町にあった城であり、現在は本丸の石垣と堀の一部が残っ
ているだけです。
 ちなみに、安土桃山時代に豊臣秀吉が、側室茶々の産所として
築かせたというあの淀城は、これとは違い、現在の位置より北へ
約500メートルの位置にあったのです。
 戦闘3日目のターゲットは旧幕府軍の淀の本営であり、淀城に
対しては、4日からさまざまな圧力がかけられていたのです。一
つは、正邦の義兄に当る尾張藩の徳川慶勝──三職会議の議定で
すが、淀城に使いを出して「中立を守れ」といってきたのです。
 もう一つは、議定の三条実美からの出頭命令です。早速淀藩目
付の石崎郁蔵がこれに応じて出向こうとすると、その途中で薩摩
藩の島津式部に呼び止められ、「旧幕府軍が退却してきても絶対
に城に入れてはならぬ」と強要されたのです。
 このとき大目付の滝川播磨守具挙が淀城の外の明新館という学
校にいて指揮を執っていたのです。したがって、ここが旧幕府軍
の本営であった可能性があります。
 鳥羽街道、山崎街道、伏見街道の位置関係は、次のURLをク
リックし、「鳥羽伏見の戦い/簡略地図」を見ていただくとわか
ります。これは「総督府資料館雑記帳」というプロクのオーナー
が作成したものです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「総督府資料館雑記帳」
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/tobafusimi/tobafushimimap.htm
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを見ると、鳥羽街道と伏見街道を南下すると、いずれも淀
城に達することがわかると思います。なお、簡略地図は淀城(旧
幕府軍本営)とありますが、前述したように、本営は淀城そのも
のではなく、城外の明新館であると思われます。
 新政府軍による鳥羽街道の戦闘は、早朝から始ったのです。戦
闘初日の3日に新政府軍がやすやすと手に入れたものの、戦闘2
日目の4日に、旧幕府軍の会津・大垣隊の奮闘によって奪い返さ
れた富ノ森陣地の攻防が展開されたのです。しかし、旧幕府軍は
会津藩の主力であってそう簡単には落ちなかったのです。
 富ノ森陣地では、旧幕府軍と薩長軍によるすさまじい銃撃戦が
行われたのです。しかし、旧幕府軍は数において圧倒的であり、
苦戦を強いられたのです。
 新政府軍は、大砲隊が街道上に陣地を構えて6門による攻撃を
加えたのですが、旧幕府軍の砲火も衰えを見せないのです。しか
も、史料によると、富ノ森村の外れには旧幕府軍の歩兵が集結し
て「躍進出撃」の気配を見せるに及んで、新政府軍側側には緊張
感が走ったとあります。
 ここで「躍進」というのは軍事用語で、敵に向かって前進する
歩兵はひとつの地点に停止して射撃を行い、機を見てさらに前進
して再び停止し、射撃を行うが、そういう動作を「躍進」という
のだそうです。歩兵の数が多い場合、躍進出撃されると連続して
弾が飛んできて危険なのです。もし、この歩兵がシャスポー銃で
装備した伝習兵であったなら、機関銃のように弾が飛んでくるこ
とになります。
 結局勝敗を決したのは、新政府軍の砲撃なのです。20ドイム
臼砲による発射が行われたのです。普通の弾丸はまっすぐ飛ぶの
で頭を低くしていれば頭上を通り過ぎていきますが、臼砲弾は山
なりに落下するので歩兵は四散せざるを得ないのです。
 さらに新政府軍は大砲を敵前36メートルまで前進させ、至近
距離から富ノ森陣地に大砲を撃ち込んだのです。この大砲の威力
はすさまじく、富ノ森陣地はもちろんのこと、その後方にある納
所陣地も吹き飛ばされ、ずるずると淀城までの撤退を余儀なくさ
れたのです。    ──  [明治維新について考える/15]


≪画像および関連情報≫
 ●「シャスポー銃」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  軍用ライフルの歴史において大きな進歩を残した先発のドラ
  イゼ銃を参考に、第二帝政を象徴する先進的な技術を用いて
  製造され、前装式のミニエー銃を旧式化させて取って替わっ
  たが、紙製薬莢を使用する技術的な限界のために金属薬莢の
  登場で旧式化し、金属薬莢を使用するグラース銃へ改造され
  た。幕末の日本においても、シャスポー銃がナポレオン3世
  から徳川幕府に贈呈され、当時最新鋭の銃器とされた経緯や
  金属薬莢式へ改造されたシャスポー/グラース銃を国産化す
  る計画が進められた結果、日本初の国産小銃となった13年
  式村田銃が誕生した事などから、倒幕派の主力だったエンフ
  ィールド銃・スナイドル銃と並んで、日本とも縁の深い銃で
  ある。               ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

シャスポー銃.jpg
シャスポー銃
posted by 平野 浩 at 04:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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