2011年02月25日

●「落ち目の徳川慶喜と似ている菅政権」(EJ第3004号)

 鳥羽伏見の戦いにおける竹中丹波守重固は最悪の指揮官だった
のですが、指揮官は生殺与奪の権限を有している存在であり、兵
士は指揮官の命に忠実に従うのです。そのため、優秀な指揮官の
もとでは兵は勇猛果敢になり、質の劣る指揮官が率いる兵は戦闘
意欲が著しく劣るのです。
 したがって、戦場ではまず指揮官を狙撃して倒すことが重要な
戦略であることは今も昔も変わらないのです。とくに当時の戦争
では、指揮官は立派な陣笠をかぶって馬上で指揮杖を振っていた
ので、狙撃手としては狙い易かったといえます。
 ところで、鳥羽伏見の戦いの当時、狙撃隊は存在したのでしょ
うか。野口武彦氏によると、狙撃隊は存在していたといっていま
す。薩摩藩の小銃隊には「狙撃人数」「斥候狙撃」といわれる兵
種があったし、長州藩には奇兵隊に「致人隊」という名前の狙撃
隊が存在したことがわかっています。
 致人隊の人数は15人と決められており、足軽のなかでもっと
も銃技に優れたものを採用したので、その採用基準は厳しく、次
の条件に合致した者のみが選抜されたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 青銅銭を糸で釣り下げて回転させ、表を向いた時に数十間から
 撃って弾を当てた者のみを採用する。
               ──長州藩諸隊「奇兵隊」より
  http://freett.com/sukechika/ishin/sonnoh/set05-2b.html
―――――――――――――――――――――――――――――
 この致人隊によって、窪田備前守歩兵一大隊長と佐久間近江守
歩兵二大隊長は狙撃されているのです。ターゲットは将校クラス
であり、順位は次のようになっていたといいます。
―――――――――――――――――――――――――――――
     狙撃第一順位 ・・・・・・   指揮官
     狙撃第二順位 ・・・・・・ 砲兵指図役
     狙撃第三順位 ・・・・・・  ラッパ手
―――――――――――――――――――――――――――――
 場所は変わって大阪城の徳川慶喜です。1月3日(戦闘第1日
目)の夜半に「旧幕府軍形勢不利」の報に仰天したといいます。
彼は戦争をはじめたこと自体を知らなかったようなのです。そこ
で、慶喜は重臣を集め、次のように言い渡したのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 戦争になっては朝廷に申し訳ない。速やかに兵を引き上げよ。
 京都においてはけっして干戈(かんか)を交えてはならない。
                       ──徳川慶喜
―――――――――――――――――――――――――――――
 この慶喜の命に対して、重臣の一人が次のように異議を唱えた
のです。おおよそ次のような内容です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 滝川具挙が「討薩の表」を携えて京都に入る以上、戦争になる
 のは必定である。確かに戦いは少し早くはじまったが、それは
 時間の問題である。自分は滝川具挙が「討薩の表」を持って京
 都に行くことは上様のご意思と思っていたが、違うのか。
―――――――――――――――――――――――――――――
 つまり、慶喜はここにいたって責任を回避しているように思え
るのです。この人は形勢が不利になると、すぐに責任を回避し、
逃げようとするのです。アジアのどこかの国の宰相と同じです。
慶喜が何よりも恐れていたことは、新政府軍が「錦の御旗」を立
てて攻めてくることです。
 戦闘3日目に慶喜の最も恐れていることがはじまったのです。
1月5日の早朝のことです。新政府軍(薩摩軍)の本営である東
寺で錦の御旗が翻ったのです。征夷大将軍である仁和寺宮嘉彰親
王は戦場の視察に出発したのです。その軍列には、錦の御旗二本
が翻っていたのです。
 将軍宮を中心とする一隊は、鳥羽街道を南下して横大路まで進
み、民家でしばし休息し、あたりを歩行して戦場を視察したので
す。斥候を立てて安全を確認した後、旧幕府軍本営のある淀近く
まで進み、兵士たちに慰労の言葉をかけたのです。そして、伏見
の焼跡を巡見し、夕方になって東寺に帰還したのです。
 その効果は絶大であったのです。
 戦場の新政府軍の士気が向上したことはもちろんですが、これ
によって旧幕府軍の総大将である徳川慶喜がいちばん衝撃を受け
たからです。「徳川慶喜公伝」には次のようにあります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 やがて錦旗の出たるを聞くに及びては、ますます驚かせ給い、
 「あわれ朝廷に対して刃向かうべき意思は露ばかりも持たざり
 しに、誤りて賊名を負うに至りしこそ悲しけれ、最初たとい家
 臣の刃に斃るるとも、命の限り会桑を諭して帰国せしめば、事
 ここに至るまじきを、吾が命令を用いざるが腹立たしさに、い
 かようとも勝手にせよといい放ちしこそ一期の不覚なれ」と、
 悔恨の念に堪えず、いたく憂鬱し給う。
              (『徳川慶喜公伝』第三十一章)
             ──野口武彦著/中公新書2040
       『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶喜のこの発言に会津藩は怒り狂ったのです。すべてを会桑両
藩に責任を押し付け、挙句の果てに会桑藩に「勝手にせよ」とい
った自身の言葉を今になって悔むとは見苦しいというわけです。
しかも、鳥羽伏見の戦場で一番勇敢に戦ったのは会桑両藩なので
す。それなのに味方を非難するとは何事かというわけです。
 これは自ら立てたマニュフェストを簡単に取り下げ、執拗に仲
間であり、党の最大の功労者である小沢一郎氏を切り捨てようと
する菅政権と同じです。そういう意味で菅首相は幕末の徳川慶喜
とよく似ているのです。まさに「裸の王様」そのものです。
          ──  [明治維新について考える/14]


≪画像および関連情報≫
 ●錦の御旗について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  鳥羽伏見の戦いにおいて、薩摩藩の本営でへあった東寺に錦
  旗が掲げられた。この錦旗は、慶応3年10月6日に薩摩藩
  大久保利通と長州藩の品川弥二郎が愛宕郡岩倉村にある中御
  門経之の別邸で岩倉具視と会見した際に調製を委嘱された物
  であった。岩倉の腹心玉松操のデザインを元に大久保が京都
  市中で大和錦と紅白の緞子を調達し、半分を京都薩摩藩邸で
  密造させた。もう半分は、数日後に品川が材料を長州に持ち
  帰って錦旗に仕立てた。その後戊辰戦争の各地の戦いで薩長
  両軍を中心に使用され、官軍の証である錦旗の存在は士気を
  大いに鼓舞すると共に賊軍の立場になった江戸幕府側に非常
  に大きな打撃を与えた。       ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

「錦の御旗」.jpg
「錦の御旗」
posted by 平野 浩 at 04:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。