2011年02月24日

●「愚かな軍司令官/竹中丹後守重固」(EJ第3003号)

 野口武彦氏の指摘する旧幕府軍の「逸機」の話を続けます。戦
闘2日目は、伏見方面での戦闘はほとんどなく、鳥羽方面で激戦
が展開されたのです。
 戦闘の前線は新政府軍優勢のうちにさらに南に下がり、下鳥羽
からさらに2キロ南に下がった旧幕府軍の「富ノ森」陣地をめぐ
る攻防に移っています。京都伏見といえば酒造業が盛んな所であ
り、酒樽がたくさんあるのです。その酒樽に土砂を詰め、畳や戸
板などを積み重ねて頑丈な塹壕を築いたので、「酒樽陣地」と呼
ばれていたのです。
 新政府軍の薩摩軍は、戦闘1日目に旧幕府軍の主力が伏見奉行
所から意外にあっさりと淀方面にまで退却したので、罠ではない
かと追撃には慎重になったそうです。しかし、旧幕府軍としては
罠などではなく、臆病な軍司令官竹中重固が淀城まで命からがら
逃げ戻っただけなのです。明らかに戦いの常識に合わない大幅な
退却であったのです。そのため薩摩軍は富ノ森陣地をやすやすと
占領できたのです。
 しかし、下鳥羽からさらに南に下ったところにある富ノ森陣地
周辺には、精鋭をもって鳴る会津・大垣の槍刀隊が潜んでいたの
です。鳥羽街道の富ノ森付近では、桂川の堤防道であり、大きな
横大路沼もあってびしょびしょの湿地帯なのです。そこに薩摩の
軍隊が通りかかったとき、周辺の湿地帯の茂みに隠れていた会津
・大垣の槍刀隊が一斉に薩摩軍に襲いかかったのです。
 薩摩軍は、槍と刀という古色蒼然たる戦法に翻弄され、押しま
くられて遂に退却をはじめたのです。これにより、会津・大垣の
槍刀隊は昨日奪われた富ノ森陣地を取り戻しています。
 これに乗じて会津・大垣隊は薩摩軍を追撃し、下鳥羽まで追い
つめています。こういう戦勝は大きいのです。たとえ局所での勝
利であっても、それをきっかけにして戦況全体がひっくり返るこ
とがよくあるからです。
 大目付の滝川具挙が、この日の富ノ森陣地の攻防の顛末を大阪
城に書き送った報告書があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 会藩大奮発にて一手打ち出し、必死の大苦戦。ついに手話に相
 成り候ところ、土手下処々に兵を配り置き、場合を見計らい、
 槍を入れ大いに闘い、突き立て突き伏せ、暫時のとき間(に)
 三十人打ち取り、首引っ下げ突っ立ち、大声に鬨を揚げ、追討
 大勝利に相成り候。鳥羽街道の賊兵は大概追い詰め、この大勝
 に乗り候て、なお追撃も出来申すべきところ、日も夕景に及び
 侯につき、強いて追討は致さず候。正月四日。
            (「伏水口戦記」『復古記』第九冊)
             ──野口武彦著/中公新書2040
       『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
 これを見ると、「もう少し追撃しようと思ったが、日も暮れか
かっていたので、やめることにした」と書いてあります。この決
定は大目付の滝川具挙がしたものではなく、司令官の竹中重固が
下したものです。大目付には作戦遂行の権限はないのです。どう
やらこの司令官は退却はうまいのに追撃はきらいのようです。以
上が「鳥羽街道富ノ森付近の戦闘での会津・大垣槍刀隊の勝利」
の逸機です。
 戦闘2日目のこと、旧幕府軍の本営が設けられていた淀城にお
いて、竹中重固を中心に作戦会議が開かれていたのです。そのと
き竹中から提案されたのは、宇治川を回って新政府軍の桃山の陣
営を衝くという作戦なのです。
 竹中重固は、またしてもこれを会津の白井五郎太夫に命令して
いるのです。そのとき新政府軍の主力は鳥羽にいて、伏見の方に
はほとんど兵を回していなかったのであり、成功率の高い作戦と
いえます。しかし、これによって、旧幕府軍がいかに会津軍頼り
であったかがわかります。
 そのとき、会議に参加していた会津藩の軍事奉行である田中八
郎兵衛は、「白井隊への援兵はどうするのか」と聞いたのです。
これに対して重固の答えは「考えていない」というものだったの
です。何度もいうように、この司令官の作戦には戦略というもの
が欠落しています。
 軍事の名言が満載されている『ナポレオン言行録』には次の一
節があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
 戦闘の翌日に備えて新鮮な部隊を取っておく将軍はほとんど常
 に敗れる。                ──ナポレオン
           ボナバルト・ナポレオン著/大塚幸男訳
        『ナポレオン言行録』/岩波文庫/435−1
―――――――――――――――――――――――――――――
 竹中重固という司令官は、兵を戦線に分散して配置させるだけ
で、勝機のある場所に一挙に兵を注ぎ込んで確実に勝つという戦
略性がないのです。これは、小沢氏のいない民主党の選挙戦略の
ようなものであり、そこには戦略性がまったく欠如しているので
何回やっても勝てないのです。
 ちなみに白井隊は命令なので宇治方向に出発しようとしていた
のですが、そこに鳥羽方面から大勢の兵が退却してきたのです。
竹中重固は慌てふためき、白井隊に宇治迂回作戦を撤回し、鳥羽
への救援に回るよう指示を変更しています。このように目先のこ
とで簡単に方針を変更する姿勢は、現在の菅政権の執行部と同じ
です。以上が「竹中重固作戦による宇治迂回作戦の実施令と突然
の撤回」の逸機です。
 幕府の存亡を賭けた鳥羽伏見の戦いは、幕府側に最悪の指揮官
が戦況をますます悪化させていきます。当然このような指揮官を
任命した徳川慶喜の任命責任は重大です。それにしても、会津軍
大垣軍、桑名軍は実によく働き、幕府軍を助けているのです。
          ──  [明治維新について考える/13]


≪画像および関連情報≫
 ●「淀城」とは何か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  淀城は、淀藩主稲葉家(家光の乳母春日の局の実家)の居城
  で、石垣が残っている。淀君のために作られた初代淀城跡は
  存在しない。淀藩は譜代で藩主・稲葉正邦は老中であった。
  鳥羽伏見の戦いのとき、稲葉は江戸におり、家老田辺権太夫
  が城を預かっていた。鳥羽伏見で敗走した旧幕軍(会津藩兵
  や新選組が含まれている)は、当然淀城に入ろうとしたが、
  家老は門を閉ざし、彼らを城内に入れなかった。藤堂藩と並
  んで淀藩の「背信」が敗北を決定づけたといわれる所以であ
  る。それでも、戦後、幕軍数人が城内に入った責任を負い、
  家老と弟・治之助は切腹して新政府軍に詫びている。もし最
  終的に旧幕軍が勝っていれば、当然、藩主の許可を得ず、独
  断で城門を閉じたとして、家老は切腹していたことだろう。
 http://bakumatu.727.net/shiseki/shiseki-kyoto-fusimi.htm
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●写真出典/「全国の城(京都6)」
      http://www.eonet.ne.jp/~yorisan/newpage64.htm

京都伏見/淀城址.jpg
京都伏見/淀城址
posted by 平野 浩 at 04:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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