1日目(1月3日)と第2日目(1月4日)──旧幕府軍に対し
数や装備においては圧倒的に劣る新政府軍が優勢のまま第3日目
に突入しようとしています。鳥羽伏見の戦いは歴史の教科書では
わずか数行で片づけられ、注目されていませんが、この戦いはま
さに時代を変える重要な4日間の戦いであったといえます。
新政府軍といってもその中心勢力は薩摩・長州両藩であり、他
藩は朝廷の顔色を見ながらの消極的な参加であったのです。当時
の幕府は大政奉還したとはいえ、莫大な資金と精強な軍隊を有し
ており、まともに戦えば薩長などものの数でもなかったのです。
それならなぜ旧幕府軍は最初から劣勢だったのでしょうか。そ
れは、両軍の指導者のリーダーシップの差に尽きると思います。
徳川慶喜の曖昧な指令に基づく大軍による上洛とそれを受けての
戦争現場の司令官たちのいい加減な指揮ぶり──ていねいに史料
を読んでみるとそれがよくわかります。
一方の薩長が仕切る新政府軍には「世の中を一新する」という
戦争の大義があり、その意思は全軍に統一されていたのです。し
かし朝廷も一枚岩ではなく、旧幕府支持でありながら、新政府軍
側についていた諸大名たちもどこかのタイミングで勝ち馬に乗ろ
うとチャンスを窺っていたのです。
新政府軍の薩長両軍の立場から見ると、本当に勝てるかどうか
わからない背水の戦闘であったのです。資金、戦力、装備などに
ついては旧幕府軍と比較できないほど、差があったのです。何し
ろ徳川家は日本の3分の1に当る800万石の資金を有していた
からです。
ところが、信じられないいくつもの偶然が重なり、新政府軍が
旧幕府軍を押し気味に2日目を終えたのです。実は2日目を終え
た時点で、この戦争の勝負はついていたのです。
戦闘の1日目と2日目の戦況において、旧幕府軍にとってチャ
ンスがいくつもあったのです。『鳥羽伏見の戦い』(中公新書)
の著者である野口武彦氏はそれらを「逸機」として、次の3つ指
摘しています。
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1.白井五郎太夫率いる大砲隊による薩摩藩伏見藩邸の砲撃
2.鳥羽街道富ノ森付近の戦闘での会津・大垣槍刀隊の勝利
3.竹中重固作戦による宇治迂回作戦の実施令と突然の撤回
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戦闘第1日目のこと。会津藩の白井五郎太夫は、大砲隊を率い
て京都まであと一歩のところに来ていたのです。総勢130名を
超える部隊です。
京橋より竹田街道を進むと、番所ができており、ストップをか
けられたのです。「勅命によってここから先は入れない」という
のです。しかし、そこを担当していたのは土佐藩であり、土佐藩
はこの戦いを「会桑と薩長の私戦」と位置付けており、中立の立
場をとるよう上層部から指示が出ていたといわれます。
土佐兵はこういったのです。「ここを通すわけにはいかないが
別の道がある。そこを通るなら、そこは土佐藩の担当ではないの
で黙認する」と。そして、親切にもその別の道をていねいに教え
てくれたのです。
白井隊は土佐兵に教わった道を半信半疑で進んだのです。しか
し、そこは狭いあぜ道なので、重い大砲を引くのが困難であり、
大砲一門を全員で引いてその道を進んだのです。そのようにして
土佐藩の番所の背後を迂回すると、再び竹田街道に出たのです。
そうすると、目の前に薩摩藩伏見藩邸がある──チャンスとば
かり、表門に大砲を撃ち込んで破壊し、邸内に突入したのです。
白井隊は会津兵であり、戦闘には自信を持っているのです。とこ
ろが邸内にいたのは薩摩藩士数名だけだったのです。これを討ち
取って、藩邸に火を放ち、さらに先を目指そうとしたのです。
ところが、白井隊には後続部隊が来る可能性はないのです。陸
軍奉行の竹中丹後守重固による旧幕府軍の布陣は総花的であり、
戦略性はほとんどなかったからです。したがって、後続部隊は考
えられなかったのです。そのため、白井隊としてはそのまま進ん
でも孤立すると考えて引き返しています。
そのとき、薩摩藩は鳥羽方面の兵員配置に手いっぱいで、竹田
街道には一兵も配置していなかったのです。もし、白井隊がその
まま竹田街道を進んでいたら、薩長軍は完全にウラをかかれたこ
とになり、大混乱に陥っていたと思われます。
また、惜しむらくは隊長の白井五郎太夫が、土佐兵が別の道を
教えてくれた時点で本営に伝令を出し、竹田街道が通れるという
情報を伝えていたら、第1日目の結果は大きく変わっていたと思
われます。
「鳥羽街道富ノ森付近の戦闘」と「宇治迂回作戦」については
司令官竹中重固の指揮の戦略性のなさでチャンスを潰しているの
です。そもそも旧幕府軍は本営の設置においても、大きなミスを
犯しているのです。
旧幕府軍が最初に陣営を構えたのは伏見奉行所なのです。ここ
を本営としたわけではないのでしょうが、1月3日に竹中重固は
そこに入っているのです。対する新政府軍は御香宮に本営を構え
ているのです。添付ファイルの地図でみると、よくわかりますが
御香宮は伏見奉行所を見降ろす位置にあり、奉行所の様子が一目
瞭然なのです。
しかも新政府軍は、御香宮の境内に5門の大砲を据えて、眼下
の伏見奉行所を射程に収めているのです。さらに桃山台にも2門
を置き、桃山台南端の西運寺に2門の合計9門で東と北に火線を
敷いていたのです。こんな状態で戦闘をはじめれば、負けるに決
まっています。
実際に第1日目にして、指揮官の竹中重固は伏見奉行所を逃げ
出し、伏見を後にして淀まで兵を引いているのです。こんな大将
なら負けは必至です。── [明治維新について考える/12]
≪画像および関連情報≫
●「御香宮」の由来
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創建の由緒は不詳であるが、貞観4年(862年)に社殿を
修造した記録がある。伝承によると、この年、境内より良い
香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の
清和天皇から「御香宮」の名を賜ったというが、実際には筑
香推宮をこの地に勧請したという説のほうが有力である。こ
の湧き出た水は、「御香水」として名水百選に選定されてい
る。明治元年(1868年)に起こった鳥羽伏見の戦いでは
伏見町内における官軍(薩摩藩)の本営となったが、本殿等
は無事であった。 ──ウィキペディア
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●地図の出典/野口武彦著/中公新書2040
鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』より
幕末の伏見地図


