は、本日3000号に達しました。スタート以来丸12年が経過
しましたが、多くの読者に支えられてここまできました。これま
でのご支援に感謝いたします。今後いつまで続けられるかわかり
ませんが、これからも書き続けますのでよろしくお願いします。
慶応4年(1868年)1月3日の三職会議に出席していた朝
廷の公卿たちは、新政府軍と旧幕府軍の戦闘がはじまってからと
いうものは、不安でいっぱいだったのです。
そのときの三職会議の様子について作家の加来耕三氏は自著で
次のように書いています。加来氏の作家としての特長は、歴史上
正しく評価されない人物を繰り返し取り上げ、可能な限り調査・
分析することで、新たな資料の発掘や新しい解釈が可能になると
いかに売れている書籍でも品切れ・絶版にし、改めて執筆・刊行
するところにある──そういう気骨ある歴史研究家です。
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公家のなかには、評定の席で「もし徳川が京へ到着したならば
このたびの王政復古は薩長のしわざであり、偽の勅命であった
ということにしてしまいまひょ」などといい出す輩も出るしま
つ。このとき、末席につらなっていた十九歳の西園寺公望が、
「それはなりません。すでに徳川をもって逆賊と決めつけ、追
討の密勅を下しておきながら、いまにおよんで勝敗に左右され
ては、公家が天下の笑いものとなり、ひいてはお上(天皇)の
威信に傷がつきます」と発言した。同席していた岩倉がわが意
を得たりと、「小僧、でかした」の名言を吐いたのは、このと
きのことである。「死んだふり」を決め込んでいた岩倉も、こ
とここに至ってはグスグズしていられなかったのだろう。朝廷
はしばらくして鎮静する。だが、結果的にみて公家たちを安堵
させたのは、西園寺の言葉でも岩倉の一喝でもなかった。大久
保の悠揚せまらぬ態度であったと伝えられる。
──加来耕三著
『大久保利通と官僚機構』/講談社刊
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戦争はもちろんスポーツでもビジネスでも、勝てるかどうかわ
からない厳しい状況に追い込まれると、人間はリーダーの顔色を
窺うものです。そしてリーダーが泰然自若としていると安心し、
落ち着きがないと心配が強くなるのです。
そのとき大久保利通は、参与の一人として三職会議に出席して
いたのですが、タバコを悠々とふかしながら、実に落ち着いたも
のであったのです。公卿たちはそういう大久保の様子を見て勝利
を確信していたのです。
しかし、大久保の心中はというと、勝てるかどうかはまったく
確信が持てなかったのです。ただ、大久保としては打つべき手は
すべて打っており、後は結果を待つだけであったのです。「人事
を尽くして天命を待つ」の心境であったわけです。
そこに「新政府軍戦況有利」の報が飛び込んできたのです。大
久保は部下に情報の真偽を確かめ、それが間違いがないことを確
かめると、ここがチャンスとばかり、行動を起こしたのです。薩
摩藩主の島津忠義を参内させたのです。大久保はそのタイミング
を祈るような思いで待っていたのです。
島津忠義が参内すると、公卿たちはほっとした思いで薩摩藩主
を迎えたのです。そこにはつい先ほどまで薩摩藩に対してあった
刺々しい雰囲気は完全に消え去っていたのです。そこで大久保は
かねて用意していたことを実行に移したのです。このときの模様
を野口武彦氏は次のように書いています。
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勢いに乗った大久保は、間髪を容れず次の手を打つ。三条実美
・岩倉具視を突き上げて同日の夜半、仁和寺宮嘉彰親王を征討
大将軍に任じ、錦旗・節刀を賜う。参与の東久世通禧。烏丸光
徳に軍事参謀の兼職が命じられる。ただちに諸藩へ慶喜征討を
布告し、これで慶喜は公的に「朝敵」とされた。山内容堂を副
将軍、松平春嶽・伊達宗城・浅野茂勲を参謀にと依頼があった
がいずれも辞退。そうやすやすとは勝ち組に乗れるものではな
い。大久保は宮中で終夜一睡もせず成行きを見守った。容堂・
春嶽らも割り切れぬ思いでそれぞれの藩邸に引き取り、悶々と
寝られぬ一夜を過ごした。──野口武彦著/中公新書2040
『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
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仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任じ、錦旗を立てる──この
準備は整ったのですが、問題はそのタイミングです。親王を戦場
に出す以上、新政府軍が押していて戦況が落ち着いていることが
必要なのです。しかし、戦闘第2日目はとてもそういう戦況では
なかったのです。
戦闘第2日目の1月4日の早朝は、鳥羽街道には深い朝霧が立
ち込めていたのです。もともと京都盆地の南部には複数の河川が
流れ込んできているので気候は湿潤であり、とくに冬場には霧が
発生するのです。とくに宇治の川霧は有名であり、百人一首の次
の和歌が有名です。
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朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに
あらはれわたる瀬々の網代木
権中納言定頼
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深い霧は何も見えないだけに、攻める方には不利であることに
加えて、その日は強い北風が吹いていたのです。午後になって風
はますます強くなり、京都の方に向けては目も明けていられない
ほどの強い風になったのです。
前日に押されまくった旧幕府軍──とくに会桑軍の士気は高く
2日目は燃えていたのですが、この日は一日中旧幕府軍は風に苦
しめられたのです。 ── [明治維新について考える/10]
≪画像および関連情報≫
●野口武彦著『鳥羽伏見の戦い』についての書評
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戊辰戦争については、明治政府側からにせよ、江戸幕府側に
せよ、多くの場合、比較的簡単に記述されるに留まり、その
スタートとなった戊辰戦争についてはさらに簡単に触れられ
るに過ぎなかったはずである。教科書レベルではほんの1行
2行、名称だけが出てくる程度のものであっただろう。この
戦いは明治政府側が圧勝に終わるのだが、その理由も、戦い
のもたらした結果についても、皇国史観側からも、マルクス
主義史観からも、「歴史の必然」という、殆ど後付けに近い
説明に終始することが多かった。
http://dainashibekkan.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-61a1.html
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野口武彦著『鳥羽伏見の戦い』


