2011年02月18日

●「公卿に銃口を向けられた山内容堂」(EJ第2999号)

 徳川慶喜にはずるいところがあったのです。部下には大まかな
指示を与え、最終的にはこうして欲しいと思っているにもかかわ
らず、細部まできちんといわないのです。本能的に自分の責任を
回避するわけです。「あとのことはよきにはからえ」というわけ
です。慶喜に限らず昔の殿様はそういう人が多かったのです。
 辞官納地を求められたときの慶喜の本当のハラは、ここはとり
あえず二条城を退去し、大阪城を本拠地として諸藩に呼び掛け、
外交努力で権力を挽回するというものであったと思われます。大
久保利通は次のように書いています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 これ必ず大阪を根拠として親藩・譜代を語らい、持重の策をも
 って五藩(薩・土・芸・尾・越)を難問し、薩長を孤立せしめ
 て挽回策を講ずるものならん。  ──「大久保利道伝」より
               野口武彦著/中公新書2040
       『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
―――――――――――――――――――――――――――――
 実際に慶喜の読みの通り、事態はそのように動き、一時は慶喜
を議定に任命することが決まっているのです。そして慶喜には、
上洛の命令が下ったのです。ただし、上洛に当っては「軽装」と
「会桑の帰国──会津・桑名藩の帰国」という条件が付いたので
すが、徳川側としてはあえて「会桑の帰国」は無視し、「軽装」
は朝廷から具体的な指示がないことを逆手にとって徳川家の判断
による「軽装」という解釈で、実際には大軍を率いて上洛するこ
とにしたのです。
 江戸時代の大名行列は、その数が多いほど力があることの証明
とされていたので、徳川家ほどの大々名ともなると、軽装といっ
ても相当の人数になるのです。慶喜は具体的指示はしていないも
のの、それなりの陣ぶれで上洛することはわかっていたのです。
それが1万5千人という規模になったのです。
 新政府軍側としては──といっても薩長が中心ですが、何とか
して早く「錦の御旗」を立て、徳川家を「朝敵」にして戦況を有
利に進めたかったのです。そうしないと新政府軍は危ないとみて
いたからです。
 問題になるのには慶喜の意思です。慶喜は勅命による上洛とい
いながら、軍勢を持って再び京を支配する──そういうもくろみ
をもっていたということを薩長としては立証したかったのです。
そういうわけで、緒戦において薩長軍は、さまざまな証拠固めを
しようとして奔走していたのです。
 捕虜になったある会津藩の兵士からの聞き取りによると、鳥羽
街道を強行突破して京に入り、そのうえで慶喜は上洛し、いずれ
薩摩を討って元のごとく盛り返す──つまり、事実上の徳川家の
支配を復活するという趣旨の命を受けていたというのです。こう
いう証拠を集めて、三職会議で徳川家を「朝敵」にしようとして
いたのです。そうしないと、武力や資金では旧幕府軍に勝てない
と薩長軍は考えていたのです。
 旧幕府軍の京への進軍を受けて、有栖川総裁が開催を命じた三
職会議は、議定の大名たちの集まりの悪いなか、旧幕府軍の大軍
が京への進軍を行っており、やがて戦闘が始まったという情報が
伝えられると、公卿たちの間では大きな動揺が広がっていたので
す。そういう時刻に松平春嶽は参朝したのです。
 新政府の議事院は清涼殿のある「公卿の間」に置かれていたの
ですが、身分制度は厳然としてあり、詰所は公卿と大名ではきっ
ちりと区分けされていたのです。公卿の間には、「虎の間」「鶴
の間」「桜の間」の3つがあり、それらの部屋には公卿たちしか
入れなかったのです。
 大名たちの詰所は、ずっと奥にある板敷きの部屋で「仮建所」
と呼ばれていたのです。春嶽が仮建所に入ると、尾張の徳川慶勝
土佐の山内容堂、芸州の浅野茂勲たちは既にきていたのです。し
かしそこに薩摩の島津忠義の姿はなかったのです。
 そのとき御所の雰囲気は険悪そのものであったのです。とくに
山内容堂の怒りは尋常なものではなかったので、公卿たちが怯え
ていたのです。容堂は薩摩の陽動作戦によって戦闘がはじまった
とし、そのような大事なことが事前に三職会議に諮られず、実行
に移されたことは我慢がならないとして議定職は辞職し、藩兵を
引き上げ、帰国すると申し入れたのです。芸州藩の浅野茂勲もこ
れに同調して議定辞任を申し入れたので、これによって公卿たち
は騒然となったのです。
 容堂の意見は乱暴だとし非難する討幕派の公卿たちに対して容
堂は、次のようにいったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 公卿などと申す者は、主殺しの光秀にすら将軍宣下ありたり
               ──野口武彦著の前掲書より
―――――――――――――――――――――――――――――
 この容堂の発言に対してある血気盛んな公卿のひとりが懐より
短銃を取り出し、銃口を容堂に向けるというとんでもないことが
起こったのです。これには控えの間にいた後藤象二郎が銃口の前
に立ちはだかって容堂を庇い、他の公卿が短銃を奪ってようやく
事なきを得たのです。まるで明治版松の廊下の騒ぎです。
 既に御所にも砲声の響きが聞こえるようになり、鳥羽伏見の方
面の空が赤く染まっているのが見えると、公卿たちの動揺はます
ます激しくなってきたのです。そのとき、薩長が旧幕府軍に勝つ
とはほとんどの者が考えていなかったといいます。
 したがって、公卿の中には「伏見の戦争は薩長会桑の『私戦』
であって、朝廷の関するところにあらず」という、あとあとの責
任逃れの草案を作っていた者もあったほどです。
 しかし、しばらくして「新政府軍戦況有利」という情報が飛び
込むと雰囲気は一変したのです。明らかに会議の「風向き」が変
わった瞬間だったのです。
          ──  [明治維新について考える/09]


≪画像および関連情報≫
 ●清涼殿とは何か
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  清涼殿とは、平安京の内裏における殿舎のひとつ。仁寿殿の
  西、後涼殿の東。紫宸殿が儀式を行う殿舎であるのに対し、
  天皇の日常生活の居所として使用された。ただし平安時代初
  期は仁寿殿や常寧殿が使用されたが、中期頃には清涼殿がも
  っぱら天皇の御殿となった。日常の政務の他、四方拝・叙位
  ・除目などの行事も行われた。内裏は鎌倉時代に火災にあっ
  て以後、再建されることはなかったが、清涼殿は臨時の皇后
  である里内裏で清涼殿代として再建され、現在の京都御所─
  これも元は里内裏である──にも1855年に古式に則って
  再建されたものが伝わっている。   ──ウィキペディア
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清涼殿.jpg
清涼殿
posted by 平野 浩 at 04:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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