2011年02月17日

●「慶喜公の先供かそれとも戦争か」(EJ第2998号)

 なぜ、旧幕府軍は無謀な挙兵上京を果たしたのでしょうか。そ
の目的は、あくまで薩摩藩を討つことにあったのです。旧幕府の
討薩の大義名分は江戸における薩摩藩によるテロ行為であり、そ
れを朝廷へ直訴することにあります。
 このとき旧幕府は、上洛の目的としては2つあったのです。三
職会議の決定による「徳川慶喜の軽装による上洛」と、薩摩藩の
不法行為を訴える「討薩の表」を朝廷に提出するためのそれの2
つです。旧幕府側としては、どちらにせよ、徳川慶喜は上洛を命
ぜられているのであるから、あくまでこの目的によって上洛を果
たし、そのさいに「討薩の表」を朝廷に提出すればよいと考えて
いたのです。
 問題は「軽装による上洛」です。本来は「会桑(会津藩・桑名
藩)の帰国のうえで」という附帯条件があったのですが、これは
は決定事項ではないとしてあえて無視することにしたのです。旧
幕府軍にとって、戦いとなったとき、会桑軍はいちばん頼りにな
る存在であったからです。
 「軽装による上洛」についてですが、「軽装」の定義が明確で
ないので、「幕府としては軽装」というように勝手に解釈するこ
とにし、あくまで軍勢は「徳川慶喜上洛の先供(さきとも)」と
して押し切る方針を固めたのです。
 慶応4年1月3日、旧幕府軍は陸軍奉行・竹中重固の率いる本
隊(会津藩、鳥羽藩、新選組など)は伏見街道を進軍し、大目付
の滝川具挙率いる桑名藩、大垣藩、見廻組などは、鳥羽街道を進
んだのです。
 この戦いは「鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)」といわれますが
鳥羽や伏見といえば、古くから和歌の歌枕によく使われる風靡な
場所であり、戦争という風情に合わないところです。『詞花集』
巻三・秋と『千載集』巻四・秋上から次の2つの和歌をご紹介し
ておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
  ◎曾禰好忠/山城の鳥羽田(とばだ)の面を見渡せば
               ほのかに今朝ぞ秋風は吹く
                  『詞花集』巻三・秋
  ◎源 俊頼/何となく物ぞ悲しき菅原や
                 伏見の里の秋の夕暮れ
                 『千載集』巻四・秋上
―――――――――――――――――――――――――――――
 さて、戦争の話に戻りましょう。薩摩藩としていちばん恐れて
いたのは、これが旧幕府と薩摩藩による私的な争いという位置付
けになることだったのです。そうなってしまうと、多くの藩は旧
幕府の味方をするからです。
 旧幕府軍は約1万5千人、薩摩軍は約3千人、長州軍約1千人
であり、芸州藩は出兵に応じず、土佐藩も容堂の反対により出兵
していないので、数のうえでは、旧幕府軍が圧倒的に有利な状況
だったのです。薩摩藩としては、薩長だけの軍勢では果たして新
政府軍といえるかどうかを気にかけていたのです。
 このとき、旧幕府軍は奇妙な錯覚にとらわれていたとしか思え
ないのです。それは慶喜公の先供として、旧幕府の大軍が堂々と
進撃を開始すれば、薩摩軍は戦わずして道をあけるはずであると
思い込んでいたのです。
 にわかには信じられない話ですが、旧幕府軍の先陣の一部の鉄
砲隊は弾丸を装填しておらず、急に薩長軍に攻められて全滅して
しまった部隊もあるのです。旧幕府軍としては、京に入ってまず
薩摩藩邸を攻撃し、そのうえで御所に請願する手はずになってい
たのです。したがって、弾丸を装填するのは、そのときでいいと
考えていたのでしょう。
 実はそのとき京は新政府軍によって封鎖されていたのですが、
旧幕府の高官にはそのことが頭になかったといえます。今までは
幕府の軍隊の行進を止める者など誰もいなかったからです。
 それにこれは、戦争ではなく、慶喜公上洛の先供の進軍に過ぎ
ないという意識もあったと思われます。この挙兵上京の目的の曖
昧さが旧幕府軍の命取りになったといえます。それに加えて、慶
喜からは「洛中に入るまでは穏やかに行動せよ」といわけている
ので、そこに戦闘気分などあまりないのです。
 これに対して、薩長は最初から戦争という意識で周到な備えを
していたのです。とくに会桑の軍勢は手強いことをよく知ってお
り、西郷隆盛の指揮のもとにあらゆる場合を考えて、作戦を練っ
ていたのです。この違いは大きいと思います。
 新政府軍側の陣容は、伏見街道方面担当は長州藩が中心であり
御香宮神社に布陣し、薩摩藩中心の鳥羽街道担当は、鴨川に架か
る小枝橋付近に布陣していたのです。
 これからいよいよ鳥羽・伏見の戦いの火蓋が切って落とされま
すが、戦争そのものの詳細は省略します。鳥羽・伏見の戦いにつ
いて書いた本はたくさんありますし、そちらを参照していただき
たいと思います。
 中でも既出の野口武彦氏の次の本は、新書版でもあり、読みや
すいのでお勧めします。1月3日〜6日までの4日間にわたる戦
闘を章別に分けて記述しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
           野口武彦著/中公新書2040
   『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した4日間』
    第3章 鳥羽街道の開戦   戦闘第1日目
    第4章 俵陣地と酒樽陣地  戦闘第2日目
    第5章 千両松の激戦    戦闘第3日目
    第6章 藤堂家の裏切り   戦闘第4日目
―――――――――――――――――――――――――――――
 EJでは、戦闘の裏側──三職会議の模様などに重点を置いて
記述していきます。
          ──  [明治維新について考える/08]


≪画像および関連情報≫
 ●鳥羽伏見の戦い/幕末日本紀行より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  鳥羽伏見の戦いはここで始まったとされています。大阪から
  淀川を上がって竹田街道の京橋で上陸した先遣隊に続き、幕
  府軍本隊が鳥羽街道と伏見街道に分かれて京都に進軍しよう
  とします。これを阻止しようとする新政府軍は、竹田、城南
  宮周辺に布陣し、鳥羽街道を北上する幕府軍とここ小枝橋で
  衝突します。「将軍様が勅命で京に上がるのだから通せ」と
  いう幕府軍と、「勅命ありとは聞いていない、通せない」と
  いう新政府軍の押し問答が続き、幕府軍が強行突破しようと
  すると、薩摩藩がア−ムストロング砲を発射、この砲声を合
  図に幕府軍一万五千人と新政府軍六千人の激しい戦いが始ま
  ります。
  http://www.geocities.jp/edo_jii_4039/nihonkikou_toba.html
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●鳥羽伏見の戦いの絵/出典/ウィキペディア

鳥羽伏見の戦い.jpg
鳥羽伏見の戦い
posted by 平野 浩 at 04:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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