たくない」という一心からです。彼は将軍という立場で朝廷とい
うものがイザというとき、どのくらい強大なものかよくわかって
いたからです。
しかし、二条城から大阪城に移ったとき、積極的対応をしない
慶喜に対し、城内では不満が高まっていたのです。このとき矢面
に立ったのは板倉勝静であり、開戦を求める将兵と慎重姿勢の慶
喜の間に板挟みになり、苦悩していたのです。
薩摩藩邸焼き討ちの報が届く前に大阪城で、慶喜と板倉の間に
次の問答があったということが、野口武彦氏の本に出ています。
城中の主戦派に突き上げられた板倉勝静が慶喜に挙兵上京を勧め
に行ったときのこと。そのとき慶喜は『孫子』を読んでいたので
すが、板倉の話を黙って聞いていたそうです。その後に2人の間
で、次のやり取りが行われたというのです。
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「譜代・旗本の中に、西郷吉之助に匹敵すべき人材ありや」
板倉はしばらく考えて答えた。
「さる人は候わず」
「さらば大久保一蔵に匹敵すべき者ありや」
「さる人物は侯わず」
「いかにもその通りならん。かく人物の払底せる味方が、薩州
と開戦すとも、いかでか必勝の策あるべき」
板倉は不服そうに引き下がったが、最後に一言、「将士らの激
昂甚だしければ、しよせん制し得べしとも思われず。もしどこ
までも彼らの請いを拒み給わば、畏れども上様を刺したてまつ
りても脱走しかねまじき勢いなり」と、不気味な言葉を残して
去っていった。 ──野口武彦著
『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した四日間』/中公新書
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このときの板倉の捨て台詞は凄い。どうしても慶喜が挙兵反対
を唱えるなら、上様を亡きものにして彼らはやりますよという脅
しをかけたからです。そこまでヒートアップしていたところに薩
摩藩邸焼き打ちのニュースがもたらされたのですから、たまらな
い。城内は一気に挙兵上京の機運が高まったのです。
慶喜が戦いを避ける狙いははっきりしているのです。慶喜はあ
くまで新政府でのしかるべきポストを求めていたのです。大政奉
還以後の経過を見ていると、慶喜の狙い通り、議定のポストが得
られる一歩手前まできていたのです。
それに慶喜の本心であるかどうかは別として、慶喜は挙兵上京
を目指す強気の発言もしているのです。事実、鳥羽・伏見の戦い
をする前に慶喜は次のような強気の発言をしているのです。
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ことここに至り慙愧にたえない。しかし、たとえ千騎戦没して
一騎となるとも退くべからず。汝らよろしく力を尽くすべし。
もし、この地敗れるとも関東あり、関東敗れるとも水戸あり、
決して中途でやめることはない。─星 亮一・遠藤由紀子共著
『最後の将軍/徳川慶喜の無念』より/光人社刊
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もうひとつ「討薩の表」というものがあります。「討薩の表」
は慶応4年の元旦に起草して宣言されています。これには別紙が
付いており、そこには薩摩藩の罪状を5ヵ条にわたって列挙して
いるのです。原文は読みにくいので省略し、その要旨を野口武彦
氏の本から引用します。
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十二月九日以来の薩摩藩の振舞いは、朝廷の真意とは考えられ
ず、島津家の奸臣どもの陰謀である。しかも浮浪の徒を語らっ
て江戸で押込み強盗を働くなど、『天人共に憎むところ』であ
る。奸臣の引渡しを要求する。朝廷からその御沙汰がなかった
ら誅戮を加える。 ──野口武彦著
『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した四日間』/中公新書
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この文面を読むと、慶喜があくまで「君側の奸を除く」という
名目で、薩摩藩に対して宣戦布告するかたちをとっていることが
わかります。朝廷に恭順の意を示しているのです。
一体慶喜の本心はどこあったのでしょうか。もともと戦争は避
けたかったのは確かですが、あまり反対姿勢を続けていると、自
分が殺されかねない状態であったので、やむを得ずどっちつかず
の姿勢になったのではないか──これについてはあとから究明し
たいと考えます。
1月3日の朝、大久保利通は岩倉具視に書状を送り、朝廷の犯
した2つのミスを指摘し、3つ目のミスを犯そうとしていると直
言し、即時開戦を訴えたのです。
朝廷の犯した2つのミスと、これから犯そうとしている3つ目
のミスは次の通りです。
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1.王政復古に関して徳川家の領地・官位の召し上げを断行し
なかったこと
2.徳川慶喜の二条城引き上げを知りながら、それを黙認して
しまったこと
3.もしこのまま徳川慶喜を上洛させると、議定職を得て徳川
家は復権する
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大久保利通は、慶喜への議定職付与はそのまま徳川家の復権に
つながり、新しき世の到来は夢のまた夢になると考えていたので
す。そして、この書状によって即時開戦を訴えたのです。
しかし、既にこの時点で戦いは不可避の状態になっており、徳
川方の信じられない情報連絡錯綜によって圧倒的に有利な徳川勢
は敗走を重ねることになるのです。
── [明治維新について考える/07]
≪画像および関連情報≫
●なぜ、戊辰戦争というのか
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戊辰戦争、慶応4年/明治元年は、王政復古を経て明治政府
を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕
府勢力及び奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。。名称は慶
応4年/明治元年の干支が戊辰であったことに由来する。明
治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅した
ことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として
国際的に認められることとなった。 ──ウィキペディア
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戊辰戦争中の薩摩藩兵士


