2011年02月16日

●「徳川慶喜の本心はどこにあったか」(EJ第2997号)

 徳川慶喜は戦争はしたくなかったのです。それは「朝敵になり
たくない」という一心からです。彼は将軍という立場で朝廷とい
うものがイザというとき、どのくらい強大なものかよくわかって
いたからです。
 しかし、二条城から大阪城に移ったとき、積極的対応をしない
慶喜に対し、城内では不満が高まっていたのです。このとき矢面
に立ったのは板倉勝静であり、開戦を求める将兵と慎重姿勢の慶
喜の間に板挟みになり、苦悩していたのです。
 薩摩藩邸焼き討ちの報が届く前に大阪城で、慶喜と板倉の間に
次の問答があったということが、野口武彦氏の本に出ています。
城中の主戦派に突き上げられた板倉勝静が慶喜に挙兵上京を勧め
に行ったときのこと。そのとき慶喜は『孫子』を読んでいたので
すが、板倉の話を黙って聞いていたそうです。その後に2人の間
で、次のやり取りが行われたというのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 「譜代・旗本の中に、西郷吉之助に匹敵すべき人材ありや」
 板倉はしばらく考えて答えた。
 「さる人は候わず」
 「さらば大久保一蔵に匹敵すべき者ありや」
 「さる人物は侯わず」
 「いかにもその通りならん。かく人物の払底せる味方が、薩州
 と開戦すとも、いかでか必勝の策あるべき」
 板倉は不服そうに引き下がったが、最後に一言、「将士らの激
 昂甚だしければ、しよせん制し得べしとも思われず。もしどこ
 までも彼らの請いを拒み給わば、畏れども上様を刺したてまつ
 りても脱走しかねまじき勢いなり」と、不気味な言葉を残して
 去っていった。              ──野口武彦著
  『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した四日間』/中公新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 このときの板倉の捨て台詞は凄い。どうしても慶喜が挙兵反対
を唱えるなら、上様を亡きものにして彼らはやりますよという脅
しをかけたからです。そこまでヒートアップしていたところに薩
摩藩邸焼き打ちのニュースがもたらされたのですから、たまらな
い。城内は一気に挙兵上京の機運が高まったのです。
 慶喜が戦いを避ける狙いははっきりしているのです。慶喜はあ
くまで新政府でのしかるべきポストを求めていたのです。大政奉
還以後の経過を見ていると、慶喜の狙い通り、議定のポストが得
られる一歩手前まできていたのです。
 それに慶喜の本心であるかどうかは別として、慶喜は挙兵上京
を目指す強気の発言もしているのです。事実、鳥羽・伏見の戦い
をする前に慶喜は次のような強気の発言をしているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ことここに至り慙愧にたえない。しかし、たとえ千騎戦没して
 一騎となるとも退くべからず。汝らよろしく力を尽くすべし。
 もし、この地敗れるとも関東あり、関東敗れるとも水戸あり、
 決して中途でやめることはない。─星 亮一・遠藤由紀子共著
       『最後の将軍/徳川慶喜の無念』より/光人社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 もうひとつ「討薩の表」というものがあります。「討薩の表」
は慶応4年の元旦に起草して宣言されています。これには別紙が
付いており、そこには薩摩藩の罪状を5ヵ条にわたって列挙して
いるのです。原文は読みにくいので省略し、その要旨を野口武彦
氏の本から引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 十二月九日以来の薩摩藩の振舞いは、朝廷の真意とは考えられ
 ず、島津家の奸臣どもの陰謀である。しかも浮浪の徒を語らっ
 て江戸で押込み強盗を働くなど、『天人共に憎むところ』であ
 る。奸臣の引渡しを要求する。朝廷からその御沙汰がなかった
 ら誅戮を加える。             ──野口武彦著
  『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した四日間』/中公新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 この文面を読むと、慶喜があくまで「君側の奸を除く」という
名目で、薩摩藩に対して宣戦布告するかたちをとっていることが
わかります。朝廷に恭順の意を示しているのです。
 一体慶喜の本心はどこあったのでしょうか。もともと戦争は避
けたかったのは確かですが、あまり反対姿勢を続けていると、自
分が殺されかねない状態であったので、やむを得ずどっちつかず
の姿勢になったのではないか──これについてはあとから究明し
たいと考えます。
 1月3日の朝、大久保利通は岩倉具視に書状を送り、朝廷の犯
した2つのミスを指摘し、3つ目のミスを犯そうとしていると直
言し、即時開戦を訴えたのです。
 朝廷の犯した2つのミスと、これから犯そうとしている3つ目
のミスは次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.王政復古に関して徳川家の領地・官位の召し上げを断行し
   なかったこと
 2.徳川慶喜の二条城引き上げを知りながら、それを黙認して
   しまったこと
 3.もしこのまま徳川慶喜を上洛させると、議定職を得て徳川
   家は復権する
―――――――――――――――――――――――――――――
 大久保利通は、慶喜への議定職付与はそのまま徳川家の復権に
つながり、新しき世の到来は夢のまた夢になると考えていたので
す。そして、この書状によって即時開戦を訴えたのです。
 しかし、既にこの時点で戦いは不可避の状態になっており、徳
川方の信じられない情報連絡錯綜によって圧倒的に有利な徳川勢
は敗走を重ねることになるのです。
          ──  [明治維新について考える/07]


≪画像および関連情報≫
 ●なぜ、戊辰戦争というのか
  ―――――――――――――――――――――――――――
  戊辰戦争、慶応4年/明治元年は、王政復古を経て明治政府
  を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕
  府勢力及び奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。。名称は慶
  応4年/明治元年の干支が戊辰であったことに由来する。明
  治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅した
  ことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として
  国際的に認められることとなった。  ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

戊辰戦争中の薩摩藩兵士.jpg
戊辰戦争中の薩摩藩兵士
posted by 平野 浩 at 04:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。