による銃撃の顛末を報告し、直ちに実力行使に踏み切るべきであ
ることを強く訴えたのです。
薩摩藩の狼藉については、既に何回も庄内藩から幕府老中にま
で報告が上がっていたのですが、老中としてはこれを押えていた
のです。大阪の慶喜から軽挙妄動を慎むよう指示されていたから
です。しかし、今回ばかりは老中も庄内藩の突き上げを押え切れ
なかったのです。それに勘定奉行の小栗忠順や旗本主戦派も実力
行使に同調し、老中も重い腰を上げざるを得なかったのです。
幕府は薩摩藩に対し、犯人の引き渡しを求めたのですが、拒絶
されると、庄内藩を主力とする上山藩、鯖江藩、岩槻藩からの支
援のもと、約1000人の兵士が薩摩藩邸を包囲したのです。
このとき、旧幕府軍からフランス陸軍教師団のブリュネによる
作戦を授けられた歩兵隊まで参加し、薩摩藩邸の正門に大砲を撃
ち込んだのです。
薩摩藩邸は黒煙を上げて燃え上がり、藩内と周辺で激しい市街
戦が繰り拡げられたのです。弾丸が飛び交い、薩摩藩側は約50
人が死亡する惨事になったのです。浪士隊のリーダーである相楽
総三は生き残った浪士隊を引率して品川沖で待っていた薩摩藩の
軍艦まで何とか逃げ込んだのです。そのとき江戸では幕府と薩摩
の両軍は完全な戦闘状態に入っていたのです。
薩摩藩邸の焼き討ちに成功した旧幕府は、このことを大阪の慶
喜に伝えるため、大目付の滝川具挙を急遽大阪に向かわせたので
す。滝川は、12月25日に幕府軍艦の順動に歩兵200人と一
緒に乗って大阪に向かい、28日に大阪城に入っています。この
とき滝川のもたらしたニュースに大阪城内は沸き返って、一挙に
好戦気分が高まったのです。
そして、慶応4年(1868年)が明けると、兵庫港での海戦
が始まったのです。そのとき兵庫港には、旧幕府海軍の主力軍艦
が5隻──旗艦の開陽、蟠竜、翔鶴、富士山、そして江戸から到
着したばかりの順動の5隻です。
旗艦開陽上の艦隊司令官である榎本武揚のもとに江戸での薩摩
藩邸焼き討ち事件の急報が届いたのは、12月28日のことであ
り、脱走者が薩摩藩の船舶に潜んでいる可能性もあるので、薩摩
艦艇への臨検などの手配を依頼してきたのです。
12月30日になると、まだ事情を知らないとみられる薩摩藩
の軍艦2隻が兵庫港に入港してきます。春日と平運です。旗艦開
陽は早速薩摩艦艇に対し、次の通告を行っています。
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弊藩はもはや尊藩と戦闘状態にある
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そこに江戸湾から砲撃を受けながら脱出してきた薩摩軍艦翔嵐
が兵庫港に入港してきたのです。1月4日の朝早くこれら薩摩の
3隻は逃亡しようとしたので、旗艦開陽は砲撃を加えます。3隻
はそのまま遁走し、春日と平運は逃げ切ったものの、翔嵐は兵庫
に来る前に既に損傷を受けており、阿波沖で自ら火をつけて自沈
したのです。海上では既に戦争が始まっていたのです。
この事態を最も恐れていたのは、徳川慶喜自身と公儀政体派の
議定や参与であったのですが、こうなるともはや誰も止めること
が困難になっていたのです。西郷隆盛の江戸における撹乱作戦が
功を奏したわけです。西郷はこういう事態を予測して、早くから
手を打っていたのです。
それでも公儀政体派の議定や参与はあきらめず、元旦早々松平
春嶽は、腹心の中根雪江を岩倉具視邸に派遣して、幕府との戦を
避けようと最後の努力をしていたのです。そして1月2日に九条
邸において三職会議が行われたのです。しかし、会津と桑名の扱
いをめぐって紛糾し、結論が出なかったのです。
実は2日の時点で幕府軍は淀まで進出してきていたのです。そ
して問題の会津兵の主力は、2日夜8時頃には伏見に到着し、市
内の東本願寺別院に入っているのです。
伏見警護を命ぜられていたのは、他ならぬ薩摩藩なのです。薩
摩藩の責任者は、長州・土佐の責任者と同道し、会津本陣に訪れ
談判したのです。
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会津と桑名両藩は朝命によって京都を引き払うことになって
いると聞いているが、何故大軍を率いて参られたのか。
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これに対する会津軍の責任者の返答は、次のようなものであっ
たのです。
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今般、徳川内府殿、朝廷よりお召しにつき、明3日入京致され
候先供にて通られ候 ──野口武彦著
『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した四日間』/中公新書
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こういわれてしまうと、現地には決定権限がないので、京都参
与衆に伺いを立てるので、この地にて止まるようにいって、立ち
戻ったのです。
1月3日になって、総裁の有栖川宮熾人親王は緊急事態に対応
するため、全議定・参与の参朝を命じたのです。そして、慶喜に
対しては「人心が動揺するので、お上より沙汰のあるまで上京を
取りやめて欲しい」と、上京中止を通達したのです。
しかし、参朝を命じられた議定・参与の集まりは悪かったので
す。彼らはそれぞれの藩邸で固唾を呑んで情勢の推移を伺ってい
たからです。一方慶喜自身の意思かそうでないかは分からないま
ま、旧幕府軍の京への進軍は続いていたのです。
ここで問題になるのは、徳川慶喜の本心です。ここまで事態が
拡大するまで、慶喜の本心がどこにあるのか、さっぱり見えない
ことです。慶喜はどう考えていたのでしょうか。
── [明治維新について考える/06]
≪画像および関連情報≫
●相楽総三とは何者か
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下総相馬郡(茨城県取手市)の郷土小島兵馬の四男として江
戸・赤坂に生まれる。本名、小島四郎左衛門将満。関東方面
の各義勇軍に参加し、元治元年(1864年)の天狗の乱に
も参戦。その後、西郷隆盛、大久保利通らと交流を持ち、慶
応3年(1867年)、西郷の命を受けて、江戸近辺の倒幕
運動に加わった。運動とはいえ総三らがやったことは、江戸
市中への放火や掠奪・暴行などの蛮行の繰り返しであった。
これは大政奉還によって徳川家を武力討伐するための大義名
分を失った薩長が、江戸の幕臣達を挑発し、戦端を開く口実
とするためであった。西郷の策は成功し、屯所を襲撃された
庄内藩が薩摩藩邸を焼き討ちする。これが、鳥羽・伏見の戦
いのきっかけとなった。 ──ウィキペディア
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●地図出典/麻布・三田界隈の幕末事変を追う
http://byp.web.infoseek.co.jp/satuma5.htm
薩摩藩三田藩邸


