2011年02月14日

●「薩摩藩の江戸における撹乱工作」(EJ第2995号)

 慶応3年(1867年)12月10日の二条城は騒然としてい
たのです。辞官納地の真相を漏れ聞いた将兵は激昂し、老中でさ
え主戦論を唱える者が多数いたほどです。
 「これはまずい」──ここで兵を挙げると薩長の思うつぼに嵌
ると慶喜は考えたのです。そこで慶喜は急遽諸隊長を集め、軍勢
を城中に入れるよう命令したのです。ここで戦を起こしてしまう
と「朝敵」にされる──慶喜はこれが怖かったのです。王政復古
の宣言だけでは薩長は幕府に戦いを仕掛けることはできないので
時を稼ぐ必要があると判断したのです。
 そのとき、京都にいた幕府軍は、総勢約1万人です。その内訳
は次の通りです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       旗本兵 ・・・・・ 約5000人
       会津兵 ・・・・・ 約3000人
       桑名兵 ・・・・・ 約1500人
―――――――――――――――――――――――――――――
 これら兵士約1万人を二条城に入れて外出を禁じたので、城内
は含んで膨れ上がったのです。このとき会津藩は薩摩藩攻撃を強
硬に主張していたのです。
 そこで、慶喜は、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬や
会津藩の佐川官兵衛などを呼び出し、次の言葉を伝えるとともに
二条城を去って大阪城に入ることを伝えたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 余に深謀あれども、事密ならざれば敗るるが故に、今は明言せ
 ず               ──『七年史』丁卯記より
−−―――――――――――――――――――――――――――
 そしてその深夜、慶喜は全将兵に隊列を組ませて、整然と二条
城を出て、千本通から鳥羽街道を下り、淀、枚方を経て大阪城に
入ったのです。
 12月14日になって、新政府の出納係である戸田忠至が大阪
城にやってきたのです。新政府には一銭も資金がないので、少し
出金してくれと泣き込んできたのです。新政府は、旧幕府から国
庫を引き継ぐことを忘れていたのです。お粗末な話です。
 慶喜としては、「渡す金などない」といって突き放すことはで
きたのですが、金5万両を渡してやっています。新政府に対して
ここで貸しを作っておいて損はないと考えたからです。
 さらに12月16日に慶喜は、英、仏、蘭、米、伊、プロシア
の6ヶ国代表と謁見し、新しい政体ができるまで、自分が日本国
の代表であり、外国との条約を履行することを宣言しています。
つまり、外交権は自分が持っていることを内外に示したのです。
 これによって、三職会議の雰囲気が変化したのです。議定の容
堂、春嶽、慶勝をはじめ、参与の後藤象二郎、中江雪江などの公
儀政体派が勢力を巻き返し、岩倉具視まで意思がぐらつきはじめ
たのです。
 そして、三職会議は、もし慶喜が自発的に辞官納地をするので
あれば、会津藩を帰国させることを条件に、慶喜の入京参内を許
し、議定職につけるという妥協案を模索しはじめるのです。
 12月24日になって、三職会議は次の案を慶喜に対して示し
たのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
   1.官位については「前(さきの)内大臣」にする
   2.領地返上は天下の公論をもって継続協議とする
―――――――――――――――――――――――――――――
 これなら慶喜としては、満足すべき案であり、12月28日に
慶喜は「請書」(承諾書)を新政府に提出しています。そして年
が明けてたら、上洛する運びになったのです。これによって慶喜
の復権は約束されたようにみえたのですが、思わぬことが起こり
そうはならなかったのです。
 この事態を深刻に受け止めていたのは西郷隆盛です。そのこと
のために密かに用意させていた作戦を11月頃から、少しずつス
タートさせるよう指示していたのです。
 西郷は、慶応3年10月頃から、関東地方の撹乱工作のための
工作員として、益満休之助と伊弁田尚平の2人を江戸に潜入させ
ていたのです。2人は三田の薩摩屋敷を本拠地として、活動をは
じめたのです。
 2人は「天璋院様御守衛」という名目で諸国の浪人の募集をは
じめたのです。天璋院というのは、第13代家定の未亡人の篤姫
のことです。目標は500人の浪士隊の編成です。一体何のため
の浪士隊なのでしょうか。
 11月の中頃になって、浪士隊は行動をはじめます。狙いはひ
とつです。江戸の治安を少しずつ悪化させることです。主として
豪商の家を選んで押し入り、勤王活動費と称して金銭を奪ったり
押し込み、略奪、強請などなど、何でもやったのです。
 12月に入ると、江戸の治安はますます悪くなり、どうやらそ
の犯人は薩摩藩ではないかという噂が広がったのです。そして、
三職会議が慶喜を議定に任命することの検討をはじめた20日過
ぎに重大な事件が起こったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 十二月二十二日、芝赤羽橋にあった庄内藩の警備屯所に銃弾が
 撃ち込まれた。酒井左衛門尉忠篤(十七万石)の手勢が配下の
 新徴組と共に江戸市中取締りを引き受けていたのを目標にした
 のである。翌二十三日、江戸城二の丸が炎上した。犯人は伊牟
 田尚平だった。天璋院付きの女中に手引きさせてタドンで放火
 したのである。同日、三田同朋町の屯所が銃撃され、居合わせ
 た二人の町人が流れ弾に当たって死んだ。発砲者はまたぞろ近
 くの薩摩屋敷に逃げ込んだ。        ──野口武彦著
  『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した四日間』/中公新書
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          ──  [明治維新について考える/05]


≪画像および関連情報≫
 ●庄内藩とはどういう藩だったか
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  庄内藩は会津藩と並ぶ佐幕派の双壁と謳われた。混乱が続く
  日本国内治安を守るべく、庄内藩は江戸市中取締り役を勤め
  ている。大政奉還が成された後、倒幕派たちは、倒幕の大義
  名分を失っていた。そこで、西郷ら策士たちによって、江戸
  かく乱を画策し旧幕府側に反乱行動を起こさせようとした。
  京都にいる西郷らの密命を受けた相楽総三ら勤王派の有志た
  ちは、江戸市中にて強盗・放火・辻斬りと専横を尽くした。
  江戸市中の治安を守る大役を担う庄内藩士たちは、このなら
  ず者たちの暴挙に憤慨していた。しかし、相楽たち暴徒は悪
  事を働いては、江戸の薩摩藩邸に戻っていくというあからさ
  まな行動に出た。庄内藩や幕吏らは薩摩藩が後ろ盾になって
  いることを承知しているから下手に手出しができない。相楽
  たちはますます意気盛んに悪逆を尽くす。
http://jpco.sakura.ne.jp/shishitati1/kakuhan-page1/32.htm
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天璋院篤姫.jpg
天璋院篤姫
posted by 平野 浩 at 04:11| Comment(1) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
江戸市中撹乱の指揮を取ったのは西郷隆盛とされていますが、それを示す証拠があればご教示下さい。
小生には敬天愛人の西郷さんがあのような非道なことを平気でやるとはとても納得出来ないのです。
私は伊地知正治が島津久光の了解のもとやったのではと思っています。勝海舟は彼を称して「恐ろしい、気違いのような男」と言っています。よろしくお願いいたします。
Posted by 中村和滋 at 2015年01月13日 23:42
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