席され、小御所会議が行われたのです。明治天皇は、参朝してい
た親王や諸臣に対して「王政復古の大号令」を発令したのです。
そしてそれに続く組織改革は驚くべき内容だったのです。
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1.将軍職辞職を勅許
2.京都守護職/京都所司代の廃止
3.江戸幕府の廃止
4.摂政・関白などの旧官職の全廃
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このときの組織改革の特徴は、王政に「復古」といいながら、
伝統的な摂政・関白・征夷大将軍・議奏・伝奏・国事御用掛など
を含めて根こそぎ全廃してしまったことです。これによって、旧
来の政府機関は一夜にして吹き飛んでしまったのです。
岩倉具視に主導される一部の公卿と薩長は、このようにするこ
とによって、今までの上級公家を一掃するとともに、徳川慶喜が
新政府の主体になる芽を完全に摘んだといえます。そういう意味
でこれは「革命」といってもよいと思います。
そのうえで「総裁」「議定」「参与」の三職を設けて、次の人
事を発表したのです。
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◎総裁
有栖川宮熾人親王
◎議定
仁和寺宮嘉彰/山階宮晃親王/中山忠能/正親町三条実愛/
中御門経之/徳川義勝(尾張)/松平春嶽(越前)/浅野茂
勲(安芸)/山内容堂(土佐)/島津茂久(薩摩)
◎参与
大原重徳/万里小路博房/長谷信篤/岩倉具視/橋本実梁/
人名未定/尾・越・芸・土・薩5藩から各3人
──野口武彦著
『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した四日間』/中公新書
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続いて、9日の午後9時過ぎから、決まったばかりの三職によ
る朝議が開かれたのです。この席には参与になったばかりの大久
保利通や後藤象二郎もいたのです。
中山忠能議定が開会を宣言したとたん、大声で次のように発言
した者がいます。土佐の山内容堂その人です。
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なぜ、慶喜を呼ばぬのだ。第一、本日の仰々しさはなんだ。徳
川家の功績は大だ。公家のみで政治を行うことはできぬ。幼い
天子を擁して権力を盗むつもりか。
──星 亮一・遠藤由紀子共著
『最後の将軍/徳川慶喜の無念』より/光人社刊
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これに対し、岩倉具視がすぐに反発し、騒然となったのですが
休憩になったとき、西郷隆盛は後藤象二郎に近づき、「短刀一本
で片付くことだということを忘れるな」と恫喝したのです。これ
は「いうことを聞かなければ実力行使してもやるぞ!」という意
味です。これによって山内容堂と後藤は沈黙せざるを得なかった
のです。力づくで屈服させられたというわけです。
小御所会議では、徳川慶喜について、次の3つのことが決定さ
れたのです。
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1.内大臣の官位辞退・
2.領地上納
3.会津・桑名両藩の京都撤退
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しかも、朝議では、徳川慶喜を支持する松平春嶽と徳川慶勝に
会議での決定事項を二条城にいる慶喜に伝える厭な役割を割り振
ったのです。この時点でも岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通は、
慶喜が決定に反発して戦争を仕掛けてくることを狙っていたので
す。慶喜は必ず戦を仕掛けてくるし、戦争をしない限り真の政権
移譲は果たされないと考えていたからです。
次の10日、春嶽と慶勝が朝旨伝達のため二条城に入ったとき
既に朝議の結果をある程度聞いていた城内は、騒然としており、
春嶽と慶勝は思わず身の危険を覚えたといいます。
新政府は権力こそ確かに幕府から奪ったものの、政府予算はゼ
ロであったのです。そこで、春嶽と慶勝の役割には、当面の政府
費用として徳川家の諸領から、200万石を上納せよという内論
を伝えることも含まれていたのです。
春嶽と慶勝が事の次第を話したとき、慶喜は顔を一瞬蒼白にし
ましたが、表面上は平静を装っていたといいます。辞官納地に慶
喜はどう出るか、春嶽は慶喜のハラは読めなかったのです。春嶽
の著作である『逸事史補』には次の記述があります。
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慶喜公、決して兵端を開く存じ(意図)はこれなく候とはいえ
ど、どうもいささか疑われざる所あり。慶喜公はすこぶる調練
好きにて、昭徳院様(家茂)以来、兵隊も調練も十分出来、ま
た藤堂・井伊等もみな兵隊もあり、みな熟練の兵の由。徳川家
にて今頼む所の練熟の兵隊は十八大隊これある由なり。いっペ
ん軍をなされたらば必ず勝利なるべしとお考えの御様子あり。
薩・長・土の兵は、みな熟練はせずとの軽蔑の御様子もあり。
──『逸事史補』より/──野口武彦著
『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した四日間』/中公新書
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慶喜は幕府軍には相当の自信を持っていたのです。それをいつ
使うのか。それとも使わないのか。慶喜は難しい判断に迫られる
ことになります。 ── [明治維新について考える/04]
≪画像および関連情報≫
●松平春嶽と徳川慶勝による朝旨伝達
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松平春嶽と徳川慶勝(議定)が使者として慶喜のもとへ派遣
され、新政府の決定を慶喜に通告した。通告を受けて慶喜は
辞官と領地の返納を謹んで受けながらも配下の気持ちが落ち
着くまでは不可能という返答をおこなった。実際この通告を
受けて、「幕府」の旗本や会津藩の過激勢力が暴走しそうに
なったため、慶喜は彼らに軽挙妄動を慎むように命じ、13
日には政府に恭順の意思を示すために京都の二条城を出て大
阪城へ退去している。 ──ウィキペディア
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徳川 慶勝


