2011年02月09日

●「王政復古のクーデターが始まる」(EJ第2993号)

 中根雪江は慶喜に人払いをさせて主人春嶽からの情報を伝えた
のですが、慶喜からは次の言葉が返ってきただけなのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 予は別に驚かざりき。既に政権を返上し、将軍職を辞したれば
 王政復古の御沙汰うるべきは当然にて、王政復古にこれらの職
 を廃せられんこともまた当然なればなり。  ──野口武彦著
  『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した四日間』/中公新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 この反応は実に不可解なのです。何やら達観し、そこには諦観
すら感じられる言葉であるからです。実は後藤象二郎は、朝政一
新後に慶喜は「議定職」になるということを密かに告げていたと
思われるのです。慶喜はこれを信じて泰然自若としていたと推定
されます。達観でも諦観でもないのです。
 それどころか、慶喜は板倉勝静に中根雪江の話を伝えて、次の
ようにいったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 この上は何事も朝命のままに服従せよ。会津、桑名にも聞か
 せるな          ──星 亮一・遠藤由紀子共著
      『最後の将軍/徳川慶喜の無念』より/光人社刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、板倉はこの慶喜を命令を守ったがために会津藩は易々
と朝廷警護を外されてしまうことになったのです。
 すべては諸候会議で決まると慶喜は考えていたのです。諸候会
議には越前の松平春嶽、土佐の山内容堂も出るので、それなりに
図らってくれるに違いない──慶喜はそのように楽観していたフ
シがあります。彼は物事をすべて自分に都合の良いように考える
ところがあるのです。
 しかし、討幕派は諸候会議を開かずに、尾張、越前、安芸、土
佐を巻き込んで、朝廷でクーデターを行うつもりでいたのです。
まず、新政権を発足させ、その上で慶喜の罪を問おうと考えてい
たのです。このクーデターが成功するかどうかは土佐藩の説得に
かかっていたといえます。
 西郷隆盛と大久保利通は、最後の手段として後藤象二郎に対し
次の項目を提示したうえで説得をしたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 1.二条摂政・賀陽宮(朝彦親王)ならびに伝奏・議奏職を
   廃止する。
 2.慶喜から出ている征夷大将軍の辞表を勅許する。
 3.京都守護職・京都所司代なども退職。蛤御門の警衛を免
   除する(排除する)。
 4.幕府の采地を削減して、議事院の給費に当てる。
 5.有栖川親王を大政の総裁とする。議定という職を置く。
 6.土州・薩州・芸州・尾州・越前などの諸藩を諸門御警衛
   とし、当日、異論を起こす者を討つ。
                     ──野口武彦著
 『鳥羽伏見の戦い/幕府の命運を決した四日間』/中公新書
―――――――――――――――――――――――――――――
 これは、クーデターの中身なのです。後藤としては、西郷と大
久保がそこまで打ち明けているのに、もし反対すれば殺されかね
ないと考えたのでしょう。結果としてそれを受け入れたのです。
 しかし、後藤はそれを直ちに松平春嶽に知らせ、春嶽はさんざ
ん悩んだ末に中根を通じて慶喜にその情報を知らせたのです。し
かし、その貴重な情報の意味を慶喜は、自分に都合の良いように
解釈したのです。
 慶応3年12月8日の夕刻から御学問所で朝議が開催されたの
です。朝議には、摂政関白二条斉敬、左大臣九条道孝、右大臣大
炊御門家信、内大臣広幡忠礼、前関白鷹司輔煕、前関白近衛忠煕
をはじめ、国事御用掛、議奏、伝奏の全メンバーが出席している
のです。さらに、将軍徳川慶喜、京都守護職松平容保、京都所司
代松平定敬も召集されていたのですが、3人とも病気と称して出
席せず、結果として欠席裁判になったのです。
 朝議の主題は、長州藩関連の名誉復活の決定です。決定事項は
次の3件です。
―――――――――――――――――――――――――――――
  1.          毛利父子の官位復活と入京許可
  2.「八・一八政変」で追放の五卿の官位復活と入京許可
  3.  岩倉具視ら謹慎中の公卿の蟄居む解除・還俗許可
―――――――――――――――――――――――――――――
 これによって、長州藩関係のすべての名誉回復はなされ、彼ら
は天下晴れて入京できるようになったのです。これで討幕を実施
する体制が整ったことになります。
 翌日の12月9日の午前10時頃のことです。御所北面の乾門
から、西郷隆盛が薩摩藩兵3000人が太鼓を鳴らして入ってき
たのです。これに芸州藩兵1200人が加わり、御所の内外諸門
をがっちり固めたのです。
 夜になって会津藩に、蛤御門と唐御門の警備を土佐藩に引き渡
すよう命令書が出されたのです。会津の指揮官・佐川官兵衛は何
も抵抗せずに土佐藩に2つの門を引き渡します。土佐藩は味方で
あると信用していたのと、板倉勝静より朝命には逆らわないよう
にという指示が出ていたからです。これによって、御所から会津
藩は一掃されたのです。
 そのとき官位復活と入京が認められた長州藩兵は京を目指して
進軍してきており、京には幕府軍や会津藩兵のいる場所は次第に
なくなりつつあったのです。
 そして9日夜には、赦免されたばかりの岩倉具視が衣冠に身を
整えて参内してきたのです。いよいよ小御所会議が開催されるの
です。明治天皇が出御され、これからがクーデターのクライマッ
クスが始まるのです。その内容は実に驚くべきものであったので
す。        ──  [明治維新について考える/03]


≪画像および関連情報≫
 ●「小御所会議」とは何か
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  小御所会議は、江戸時代末期の慶応3年年12月9日に京都
  の小御所で行われた国政会議。同日に発せられた王政復古の
  大号令で、新たに設置された三職(総裁・議定・参与)から
  なる最初の会議である。すでに大政奉還していた徳川慶喜の
  官職(内大臣)辞職および徳川家領の削封が決定され、討幕
  派の計画に沿った決議となったため、王政復古の大号令と合
  わせて「王政復古クーデター」と呼ばれることもある。その
  一方で、この時期までにしばしば浮上しては頓挫した、雄藩
  連合による公儀政体路線の一つの到達点という面も持ち合わ
  せていたのである。         ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

再建された京都小御所.jpg
再建された京都小御所
posted by 平野 浩 at 04:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 明治維新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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