たるもの自らの発言がブレたり、言行不一致があると誰も信用し
なくなるということをです。
「国民の生活が第一」という公約を平然と破り、それでいてテ
ンとして恥じない。政治主導で予算実行の優先順位をつけて重要
なことから実施するという約束を反故にし、いとも簡単に「財源
がない」という財務省の策略に嵌まり、自らを厳しく律すること
なく増税に血道を上げる──これでは何ら自民党と変わらないし
民主党を支持して一票を投じた国民を裏切る行為です。
中でも不可解なのは、小沢一郎氏の醜悪な追放劇です。三顧の
礼をとって民主党に招聘し、民主党が悲願としていた政権交代を
実現させた最大の功労者を疑惑の渦巻く強制起訴を理由に石もて
追いやろうとする──民主党は仲間を守らない人間の道に欠ける
ことを平気でやる党という認識が定着しつつあります。
これでは民主党は選挙に勝てるはずはないし、統一地方選は惨
敗を重ねることは必至です。ところが、菅首相をはじめ、岡田幹
事長以下の民主党幹部はそんなことはないと考えています。こう
いうのを「裸の王様」というのです。
実は、幕府が存亡の危機に立たされていたときの徳川慶喜にも
致命的なブレやリーダーとして欠ける点があったのです。大政奉
還から王政復古を経て鳥羽伏見の戦いに至るプロセスで、それは
あったのです。これでは、選挙ならぬ戦争に勝てるはずはないの
です。まず、王政復古について述べましょう。
慶応3年(1867年)──龍馬が暗殺された同じ年のことで
す。徳川慶喜の側用人である原市之進が斬殺されたのです。原市
之進は水戸藩士で、文久3年(1863年)に慶喜の側近になり
いろいろな面で慶喜を支えてきていたのです。慶喜は原を信頼し
ており、将軍就任と同時に幕府目付に抜擢していたのです。
犯人は、攘夷派幕臣の鈴木豊次郎と依田雄太郎の2人であり、
慶喜の政治力を削ぐことに狙いがあったと思われます。2人の黒
幕は、幕臣山岡鉄舟であるとされています。彼は強硬な兵庫開港
反対派なのですが、兵庫開港の勅許を得たのは原の働きであるこ
とを知り、激怒していたといわれます。
実は慶喜はもうひとりの側用人である平岡円四郎も殺されてい
るのです。元治元年(1864年)、平岡は池田屋事件の終結と
今後の長州藩への対処について協議した帰り道で、水戸浪士の江
幡広光と林忠五郎に暗殺されたのです。
側近が次々と暗殺されることは、幕臣には慶喜に反対する者が
多いことを意味しています。幕府には依然として攘夷派が非常に
多く、とくに慶喜の出身藩である水戸藩は、攘夷派の巣窟なので
す。福沢諭吉はこれについて次のように述べています。
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徳川政府は行政外交の任に当たっているので、開港説、開国論
をいわなければならない。けれども幕臣全体の有様はどうだと
いうと、四方八方、どっちを見ても洋学者が頭をもたげる時代
ではない。表面は開国をよそおっているが、幕府は真実、自分
も攘夷をしたくて堪らないのだ。実に愛想が尽きて同情する気
もない。 ──星 亮一・遠藤由紀子共著
『最後の将軍/徳川慶喜の無念』より/光人社刊
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徳川慶喜が自身のボディーガートとしての京都守護職を松平容
保に任命したのは、水戸藩がこのような状態でまったく使い物に
ならないので、会津藩に頼らざるを得なかったのです。
松平容保の京都守護職就任には会津藩の家臣たちは反対だった
のですが、容保は会津藩と徳川宗家とは他の藩とは違い、どんな
幕命にも従えという藩祖の遺訓があり、徳川宗家と盛衰存亡をと
もにする間柄であることを説いて家臣を納得させたのです。
しかし、慶喜が大政奉還を決めたことによって、会津藩は藩主
容保に帰国を本気で勧めたのです。京都にとどまることは、出費
も莫大であり、容保の健康に不安を持っていたからです。それに
加えて容保の家臣としては、慶喜の態度に一抹の不安感と不信感
を持っていたのです。果たせるかな、この不安感はまもなく的中
することになるのです。
しかし、慶喜は絶対に松平容保を離さなかったのです。慶喜と
しては2人の腹心を殺され、相談相手がなくなってしまったこと
と、心底から身の安全に不安を抱えていたからです。
徳川慶喜は土佐藩が建白した大政奉還を受け入れる決断をし、
慶応3年(1867年)10月13日に在京40藩の重臣を集め
大政奉還を宣言して、翌日政権を朝廷に返還しています。慶喜と
しては、朝廷はいきなり返還されても困るので、当分の間は政権
は自分に託されると考えていたのです。確かに、政権を返還され
た朝廷では、朝議を開き、慶喜の思惑通り、諸候会議で今後の方
針を決めるまで政治は旧幕府が担うことになったのです。
この状況に危機感を持ったのは西郷隆盛です。こんなに簡単に
慶喜が大政奉還を受け入れるとは思っていなかったからです。こ
の流れによって、慶喜に諸候会議で実権を握られると、新しい国
家体制が慶喜中心に形成される可能性がある──西郷隆盛はこの
ように考えたのです。
このさい、抱き込むべきは土佐藩であると悟った西郷は後藤象
二郎を説いたのですが、土佐藩としてはあくまで西郷の武力行使
に反対したのです。それが容堂公の命令であったからです。
西郷は朝廷の中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の3人に
討幕の密勅の起草を依頼すると同時に、江戸でゲリラ戦を行う手
はずを整えたのです。
後藤はここにきて西郷の動きを知り、松平春嶽にそれを伝えた
のです。驚いた春嶽は直ちに側用人の中根雪江を二条城に走らせ
慶喜にそれを知らせたのですが、ことの重大性を慶喜は理解しな
かったといいます。慶応3年(1867年)12月6日のことで
す。 ── [明治維新について考える/02]
≪画像および関連情報≫
●原 市之進/「歴史くらぶ」より
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徳川家では、征夷大将軍になるには必ず徳川家の当主でなけ
ればならないという取り決めがあった。世襲制であると同時
に、徳川家の当主を兼ねた。手続きとしては、まず宗家の当
主になりその後、朝廷から征夷大将軍の宣下を受けることに
なる。しかし、徳川家の当主になったときは、たとえ養子で
もすぐにそのまま征夷大将軍に移行するということが慣行に
なっていた。ところが徳川慶喜の場合は違った。彼が徳川宗
家の当主になったのは、1866年(慶応2年)8月のこと
だが、将軍になったのはこの年12月5日のことだ。約半年
間、空白期間があるのだ。そうさせたのは慶喜の黒幕だった
原市之進の画策だ。原はこの頃、慶喜の黒幕としてピタリと
ついていた。 http://rekishi-club.com/kijin/hara.html
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原 市之進


