2011年02月04日

●「龍馬暗殺犯はI会津藩の佐々木只三郎」(EJ第2990号)

 2010年10月4日から80回にわたって書いてきた「新視
点からの龍馬伝」は本日で終了します。果たして新視点だったか
どうかはわかりませんが、歴史的な流れはできる限り忠実にして
そのうえで今まであまり取り上げられていない新視点からの記述
を試みたつもりです。
 ここまで龍馬の暗殺犯を追ってきましたが、どうやら実行犯は
見廻組ということになりそうです。その流れを整理してみます。
 ことの発端は今井信郎の告白なのです。明治30年(1879
年)に今井は「甲斐新聞」の記者結城礼一郎に請われて、自分が
龍馬を斬ったと告白したのです。
 結城礼一郎はその今井の談話を「甲斐新聞」に発表したのです
が、その記事が明治33年(1900年)に次の雑誌に転載され
てから一般的に知られるようになったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
       「近畿評論」──今井信郎氏実歴談
           ──『歴史街道』/2010年12月号
                  /菊池明氏論文/PHP
―――――――――――――――――――――――――――――
 これに加えて、今井信郎は明治42年(1909年)にも「大
阪時事新報」に連載された「隠れたる豪傑今井信郎翁」において
次のように告白しています。
―――――――――――――――――――――――――――――
      坂本氏を斬りたるはかく申す拙者なり
                 ──上掲『歴史街道』より
―――――――――――――――――――――――――――――
 しかし、今井は明治3年(1870年)の新政府の取り調べで
供述した内容から、「甲斐新聞」、「近畿評論」、「大阪時事新
報」とメディアが変わるにしたがって、その内容が自分を誇示す
るものに大きく変わっており、今井犯人説は信用できないとされ
てきたのです。
 このままであったなら、今井犯人説は信用されないままになっ
たと思われます。しかし、今井の「近畿評論」の記事を読んで、
渡辺篤が明治44年(1911年)に「渡辺家由緒歴代系図履歴
書」をあらわし、前号でご紹介したように、今井の発表した内容
を裏づける事実を公表したのです。
 さらにダメ押しになったのは、佐々木只三郎の兄である手代木
勝任の「手代木直衛門伝」なのです。ここでは、佐々木只三郎が
リーダーとなって今井信郎、渡辺篤志らとともに龍馬を襲撃した
事実が明らかにされているのです。佐々木只三郎は死の間際に兄
の手代木勝任に事実を打ち明け、兄の勝任も死にさいしてその事
実を告白しているのです。
 今井信郎、渡辺篤、佐々木只三郎の3人がばらばらに龍馬襲撃
の事実を認めているのです。3人とも龍馬を襲撃し、殺害したこ
とは一致しているのです。しかもいずれも文書のかたちで残され
ているので、疑いようがないといえます。そういう意味で龍馬襲
撃犯は京都見廻組ということになります。
 しかし、なぜ佐々木只三郎は事実を伏せていたのでしょうか。
龍馬には捕り方2人の殺傷の罪があり、そういう意味で龍馬を補
殺するのは、京都見廻組の公務のはずです。そうであるなら、な
ぜ、佐々木只三郎は死の間際まで沈黙を貫いたのでしょうか。守
護職の松平容保から指示を受けて龍馬補殺を実行したのであれば
それが成就した以上、なぜそれを公表しないのでしょうか。これ
は京都見廻組の成果であり、胸を張っていうべきことであるのに
なぜ秘匿するのでしょうか。
 問題は誰が佐々木只三郎に指示を出したかです。前回の終わり
にも触れたように、手代木勝任は桑名藩主松平定敬(容保の弟)
であるといっていますが、磯田道史氏は松平容保であるとしてい
ます。なぜなら、見廻組は京都守護職の配下であるのに対し、松
平定敬は京都所司代であって命令系統が異なるからです。
 幕末の京都の治安維持組織を整理すると、幕府の下に京都守護
職がおり、その直轄下に反幕府過激派対策特別班があり、新選組
と見廻組に分かれるのです。職制上は新選組も見廻組も同列です
が、見廻組は現在の検察のように政治犯などの大物の補殺を職務
としていたのです。
 これに対して京都所司代は京都守護職の配下であり、その下に
は町奉行や目明しがいて、一般犯罪の捜査に当るのです。京都所
司代が見廻組を指揮できないのは明らかです。指揮・命令系統が
違うからです。
 それでは、京都守護職の松平容保が直接命令して、龍馬を暗殺
させたのでしょうか。
 龍馬と後藤が提案した大政奉還は幕府の幹部によって、賛否が
分かれるのです。討幕派が力を強めるなかで徳川慶喜や永井尚志
は龍馬に救いを見出し、「龍馬を捕えてはならぬ」と指示を出し
ていたことは間違いないと思われます。したがって、その時点で
捕り方の殺傷犯としての龍馬は許されていたと考えます。だから
龍馬は永井をはじめ、松平容保にまで会えたのです。
 こういう状況を見て危機感を強めたのは会津藩と桑名藩です。
彼らは慶喜や永井と違って、龍馬を危険な男としてとらえており
会津藩の佐々木只三郎は京都守護職の松平容保に直訴したのでは
ないかと思うのです。しかし、慶喜からは龍馬の不逮捕命令が出
ており、公然と殺害はできないのです。そこで佐々木只三郎の一
存で龍馬を暗殺し、それを公表しなかったと思われます。
 一方において薩摩藩──とくに大久保利通は伊東甲子太郎に龍
馬暗殺の指示をそれとなく出していたと思います。薩摩藩は英国
式兵学教授の指南を受けていた赤松小三郎ですら中村半次郎に命
じて暗殺させています。幕府方に赤松の知識が伝授されるのを恐
れたからです。龍馬が狙われても不思議はないのです。
 4ヵ月にわたる長編にもかかららず、ご愛読を心より感謝いた
します。    ──  [新視点からの龍馬論/81/最終回]


≪画像および関連情報≫
 ●兵学教授の赤松小三郎を斬った薩摩藩の事情
  ―――――――――――――――――――――――――――
  (中村)半次郎には、元々顔に険があった。その険が酒でさ
  らに際だっていた。「赤松先生、これでお別れですな。そこ
  でお願いがあります」。「何でしょうか」。「先生が薩摩塾
  をお辞めになるということは、私たちとは子弟の縁が切れる
  ということでよろしいでしょうか」。「うん。そういうこと
  になりますね」。「ならば、私から子弟の盃を返すことをお
  許し下さい」。半次郎は、盃を小三郎に渡して、徳利から酒
  を注いだ。それを小三郎が飲み干したのを見て、自らその盃
  で飲み、そのまま盃を割った。
  「先生、私がお送りしましょう」。不穏な空気を察したので
  あろう。(小松)帯刀が立ち上がって小三郎を階下まで送り
  さらに途中までを護衛した。帯刀は藩内の不穏さを知って最
  後まで小三郎を守ろうとした人物である。 ──江宮隆之著
   『龍馬の影/悲劇の志士・赤松小三郎』/河出書房新社刊
  ―――――――――――――――――――――――――――

手代木勝任.jpg
手代木勝任
posted by 平野 浩 at 04:09| Comment(4) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
素晴らしく臨場感にあふれた連載でした。手に汗を握り息つくまもなく最後まで一気呵成に読みとおさせていただいた気がします。
途中中岡慎太郎犯人説にははらはらしましたが、結局は中岡慎太郎が絶息前に伝えた龍馬最期の様子がやはり真実だったと言う結論だったのでほっとしました。
ご労作をご発表くださり、龍馬と晋作に魅かれるいち読者としてこころより御礼申し上げます。
東行系 拝
Posted by 東行系 at 2011年02月04日 21:37
いつも、読ませていただいています。
龍馬暗殺の謎、実に興味深い内容でした。
ありがとうございます。
Posted by 奈良のりゅうさん at 2011年02月04日 22:04
ご愛読感謝します。
Posted by 平野 浩 at 2011年02月05日 04:58
 すごいボリュームに関心します。膨大な資料になったと思います。私も「龍馬暗殺は史料から見て見廻組である」に賛同します。
 しかし命令系統に異議をとなえたいと思ます。最終的に松平容保の意を汲んだ実兄の会津藩士手代木直右衛門が弟の佐々木に依頼したで間違いないと思います。
 見廻組はその発足当時、小大名蒔田相模守と大身旗本松平因幡守が、見廻役としてそれぞれ200名の隊士(予定)束ねるというものです。京都での身分は新撰組とともに守護職御預りというものでした。今井も明治3年の調書で守護職配下としています。身分の無い新撰組は当然ですが見廻組も配下でしょうか。
 会津藩藩の記録に、新撰組の記録は詳細にありますが見廻組のものは無いようです。
 当時の京都の警察組織は、頂点に禁裡(京都)守衛総督・京都守護職・京都所司代ー京都町及び伏見奉行でした。特別組織として新撰組・見廻組です。守衛総督は御三卿の一橋慶喜、守護職は大大名の会津藩、所司代は中大名の桑名藩です。
 幕臣である見廻組の人事命令系統は幕閣で、若年寄ー(目付)ー見廻役(見回組)となります。また、ある文献は「守護職、所司代と相談し決め難い問題は老中に伺いをたてること」として命令系統を明確にしなかったとしています。
 私は、竜馬殺害の時見廻役だった旗本小笠原河内守に目付の榎本対馬から下命があったと思いす。本人は否定していますが、目付は旗本を指揮監します。あるいは直接佐々木に命令したかもしれません。
 ウエブで見廻組を検索すると「第二章新撰組・見廻組」「京都見廻役・京都守護職配下新撰組」でも同じような命令系統のことが書いてあります。
 幕臣の見廻組の主任務は御所及び公家屋敷の警備・監視が主なもので、当然浪人集団の新撰組はできない。市中見廻りは、守護職・所司代・新撰組とともに分割して行なっており、全般的に上部機関である守護職や所司代からの依頼はあったと思います。守護職御預りではあるが新撰組と違い直轄あるいは管轄ではない。

 
Posted by 利根川一郎 at 2011年10月16日 10:42
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