2011年02月03日

●「龍馬暗殺は史料から見て見廻組である」(EJ第2989号)

 「今井信郎の証言による見廻組犯行説」──これは現在通説に
なっています。これについて概略を述べることにします。明治3
年(1870年)2月のことです。
 元京都見廻組の今井信郎は、新政府の取り調べに対し、見廻組
が坂本龍馬を殺害したことを認めています。その理由としては、
慶応2年(1866年)1月に伏見奉行所の手勢が寺田屋で龍馬
を襲ったとき、龍馬がピストルで捕り方2名を殺害したことを上
げています。命令を出したのは、京都守護職の松平容保であり、
これは見廻組の公務なのです。
 今井信郎の供述調書によると、実行犯は見廻組組頭の佐々木只
三郎を含む7人であり、近江屋の2階に上がったのは、佐々木只
三郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助の4人であり、階下の
見張り役が土肥仲蔵、櫻井大三郎、そして今井信郎なのです。
 しかし、その後今井の証言は二転三転するのです。実行犯7人
のうち、佐々木只三郎と今井信郎以外は供述した当時には鳥羽・
伏見の戦いで既に死亡していた人の名前を恣意的に使った疑いが
あるのです。
 つまり、供述時点で生存している人がいるので、その人たちに
何らかの累が及ぶことを心配した今井の配慮だったとされている
のです。つまり、今井が供述した実行犯の中には、ダミーの氏名
が含まれているというのです。また、今井信郎は、最初自分は見
張り役だったと述べていたにもかかわらず、後に龍馬を斬ったの
は自分であると供述を変更しています。
 今井信郎が供述した当時生存していた一人が渡辺篤という人物
であることが分かっています。渡辺篤は、明治44年(1911
年)に次の文書を著し、そこで佐々木只三郎の命を受け、龍馬暗
殺に加わったことを書いているのです。こういう証言が出てくる
と、今井信郎の供述の正しさが証明されるといえます。
―――――――――――――――――――――――――――――
        「渡辺家由緒歴代系図履歴書」
―――――――――――――――――――――――――――――
 渡辺篤は、今井信郎が『近畿評論』に書いた「渡辺が六畳へ鞘
を置いて帰って・・・」の記述には誤りがあるとして、鞘を現場
に忘れたのは、世良敏郎であると「渡辺家由緒歴代系図履歴書」
に書いています。
 この世良敏郎は実在の人物であり、桑名藩士・小林甚七の次男
なのです。慶応3年(1867年)5月に見廻組の世良家の養子
になり、敏郎と名乗ったことが、同家の系図書によって明らかに
なっているのです。
 しかし、佐々木只三郎をリーダーとする京都見廻組による龍馬
暗殺が、今井信郎が述べているように、寺田屋騒動における捕り
方2名の殺害犯の逮捕という見廻組の公務とは明らかに異なるも
のであることが分かっているのです。
 これについて、あの『武士の家計簿』(新潮新書)の著者であ
り、茨城大学人文学部准教授の磯田道史氏は自著において、上記
の渡辺篤の証言として、次のように述べています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 もう一人の襲撃メンバーの渡辺篤も証言を遺しています。「潜
 (ひそかに)に徳川将軍をくつがえさんと謀り、其連累(れん
 るい)四方に多々ある故に」要するに、龍馬が徳川幕府を覆そ
 うと企んでいる。その上、福井まで行って松平春獄も味方にし
 幕府の重鎮である永井玄蕃まで取り込もうとしている。こうい
 う人間を放置していたら、どんどん幕府骨抜き派が増えてしま
 って危険だ。そういう認識があった。そして「見廻組頭取佐々
 木只三郎の命により」と命令者も書いてあります。
           ──磯田道史著『龍馬史』/文藝春秋刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 既に述べているように、幕府内において龍馬の評価が大きく異
なるようです。これは映画もテレビもない時代ですから、当然の
ことであるといえます。実際に龍馬に会って話を聞いた人は龍馬
のスケールの大きい発想に魅了されるのですが、そうでない人は
龍馬は討幕派の先鋒であると間違ってとらえてしまうのです。と
くに土佐藩に大政奉還を建白させ、討幕派に変えたことは許せな
いと考えている幕臣は多いのです。
 それでは龍馬暗殺の計画を立てたのは誰でしょうか。既出の磯
田道史氏によると、佐々木只三郎の兄、手代木勝任(てしろきか
つとう)であるといっています。佐々木只三郎は会津藩士の佐々
木源八の三男なのです。
 手代木勝任は、明治37年(1904年)6月に岡山で亡くな
るのですが、死の直前まで隠していた龍馬暗殺について家族に話
したのです。家族たちはそれを「手代木直右衛門伝」としてまと
め、出版しています。そこには次のような驚くべきことが書いて
あったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 手代木翁死に先立つこと数日、人に語りて曰く坂本を殺したる
 は実弟只三郎なり。薩長の連合を謀り、又土佐の藩論を覆して
 討幕に一致せしめたるを以って深く幕府の嫌忌を買ひたり。其
 諸侯の命を受け、壮士二人を率い、蛸薬師なる坂本の隠れを襲
 ひ之を斬殺したり。 ──磯田道史著『龍馬史』/文藝春秋刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 そして、佐々木只三郎に指示を与えた「其諸侯」とは、会津容
保公の弟である桑名公──桑名藩主・松平定敬であると推測して
いますが、磯田道史氏によると、それは松平容保をかばっての配
慮であり、命令者はあくまで松平容保であるとしています。
 谷干城などは、今井信郎が「龍馬を暗殺したのは俺だ」といっ
たとき、「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と
非難していますが、今井だけでなく、複数の人物が龍馬暗殺を証
言し、記録に残っているところを見ると、どうやら龍馬暗殺犯は
見廻組のようです。   ──  [新視点からの龍馬論/80]


≪画像および関連情報≫
 ●磯田道史氏について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1970年岡山市生れ。2002年、慶應義塾大学文学研究
  科博士課程修了。博士(史学)。2004年より茨城大学人
  文学部准教授。2008年から国際日本文化研究センター客
  員准教授も務める。専攻は日本社会経済史。加賀藩の御算用
  者・猪山家の幕末から明治に亘る家計を記した古文書を発見
  し、これを大きな時代の波を乗り越える家の記録として読み
  解いた『武士の家計簿』を2003年に発表。同書は専門家
  だけでなく一般の歴史ファンにまで幅広く話題を呼び、新潮
  ドキュメント賞を受賞した。他の著書に『殿様の通信簿』、
  『近世大名家臣団の社会構造』、『龍馬史』などがある。
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磯田道史氏と著書.jpg
磯田 道史氏と著書
posted by 平野 浩 at 04:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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