2011年02月02日

●「龍馬暗殺/高台寺党犯行説」(EJ第2988号)

 龍馬暗殺犯が新選組ではないとすると、一体だれが犯人なので
しょうか。有力なのは次の2つです。
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     1.伊東甲子太郎による高台寺党犯行説
     2.今井信郎の証言による見廻組犯行説
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 「伊東甲子太郎による高台寺党犯行説」の背景には薩摩藩──
とくに大久保利通の影があります。ところで、高台寺党とは何で
しょうか。これには少し説明がいります。
 新選組の一般的理解は、京都において反幕府勢力の取り締まり
のための警察行動に従事した浪士の一団というものです。つまり
幕府を守るための佐幕派の部隊です。
 しかし、新選組はもともとは尊皇攘夷の旗の下に集まった集団
なのです。したがって、そこから発展して勤皇勢力と通じ、天皇
を守るための軍事部隊にしようとする動きも生まれたのです。こ
のように、時間が経過するとともに、新選組内部は必ずしも一枚
岩ではなくなり、さまざまな対立が生まれたのです。
 伊東甲子太郎は常陸国(現在の茨城県)の出身ですが、水戸に
遊学したときに、勤皇思想に傾斜し、皇室の信奉者──国粋主義
者になっていたのです。元治元年(1864年)に近藤勇の勧誘
を受けて伊東は新選組に入隊しますが、その決断をしたのは、近
藤から次の言葉を聞いたからです。
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  「御陵衛士」を集めている。その仕事を手伝って欲しい
―――――――――――――――――――――――――――――
 御陵衛士(ごりょうえじ)というのは、天皇のお墓を守るため
の衛士のことです。当時幕府は朝廷を取り込むため、各地の天皇
陵の修復を各藩に命じており、その修復後の天皇陵の管理を行う
衛士を募っていたのです。
 しかし、入隊してみると、近藤は御陵衛士の話をしなくなり、
新選組はますます佐幕活動に傾斜していったのです。近藤と土方
の狙いは、新選組が幕府の直参になる──つまり、正式の幕臣に
なるというところにあったのです。
 これに不満を持つ伊東はそのことを近藤や土方と話し合うとと
もに、各方面にさまざまな働き掛けをしたのです。そういう最中
に慶応2年12月25日に孝明天皇が36歳という若さで崩御さ
れ、伊東はその御陵を守る衛士を拝命します。ここで伊東は近藤
に次の提案をするのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 われわれと新選組を表面上分離して、われわれを新選組の別働
 隊にして欲しい。あくまで新選組のために尽くすので、人数を
 分けて欲しい。しかし、志は新選組と一緒である。
―――――――――――――――――――――――――――――
 近藤と土方は分離には基本的に反対なのですが、このことで伊
東と争うことは得策でないと判断し、伊東の分離を了承したので
す。慶応3年(1867年)3月25日のことです。伊東は文武
に優れ、リーダーシップもあり、なかなか魅力的な人物だったの
で、もし、分離を巡って争うと、新選組は分裂してしまう恐れが
あったからです。
 このとき、伊東とともに新選組を出たのは、藤堂平助、篠原泰
之助、新井忠雄、加納道之助、安部十郎、内海二郎、中西登、橋
本皆助、清原清、毛内有之助、服部武雄、富山弥平衛、斎藤一ら
13人なのです。しかし、双方とも、スパイの役割を担うメン
バーを潜り込ませていたのです。この中では、斉藤一は新選組の
スパイであり、伊東の行動を監視して逐一近藤や土方に知らせる
役割を担っていたのです。
 このようにして分離した伊東一派は、高台寺の塔頭月真寺に屯
所を置いたので、「高台寺党」と呼ばれるようになったのです。
このとき、伊東は何とかして薩摩藩に加わりたいと考えており、
大久保利通に接近したのです。伊東としては、既に幕府はもたな
いと考えていたからです。大久保としては伊東の本心を見抜くと
ともに、伊東一派が幕府と討幕派の双方から無理なく情報収集で
きるポジションにいることを高く評価したのです。
 龍馬の暗殺に薩摩藩が何らかのかたちで関わっていることは確
かですが、その実行犯は京都見廻組であるという説を唱える人た
ちがいます。しかし、薩摩藩と見廻組は水と油であり、どう考え
ても結びつかないのです。
 しかし、伊東率いる高台寺党であったらどうでしょうか。御陵
衛士であって朝廷に近いし、しかも、薩摩藩と行動をともにしよ
うとしている──大久保利通としてはモチベーションしやすいし
使いやすいのです。大久保が「龍馬を殺れ!」と命じたら、高台
寺党は進んで実行に移す可能性は十分あります。刺客としてはき
わめて使いやすいからです。
 しかし、新選組の近藤はそういう高台寺党の動きをスパイを通
じて掴んでいたのです。慶応3年11月18日、龍馬が殺害され
た3日後のことです。近藤は、七条醒ヶ井の妾宅へ伊東を一人を
招いて酒宴を開いたのです。
 何の警戒心もなくそれに応じた伊東甲子太郎は、したたか飲ん
で宿舎に帰る途中、新選組の大石鍬次郎ら4名によって惨殺され
てしまいます。そして大石らは伊東の死骸をおとりとして油小路
に放置して、新選組隊士20名で待ち伏せたのです。
 事態を知った高台寺党の7人は、罠と分かってはいたのですが
遺体を引き取りに油小路に向かったのです。しかし、衆寡敵せず
3人が殺され、4人は薩摩藩に逃げ込んで助かっています。これ
によっても高台寺党と薩摩藩はつながっていたといえます。
 これが「伊東甲子太郎による高台寺党犯行説」なのですが、確
たる証拠はないのです。ここがこの説の最大の弱点であるといえ
ます。もう一つの「今井信郎の証言による見廻組犯行説」は明日
のEJで述べます。   ──  [新視点からの龍馬論/79]


≪画像および関連情報≫
 ●「油小路事件」について
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  新選組は油小路七条の辻に伊東の遺骸を放置し、その周りに
  伏せ、遺体を引き取りにきた同志をまとめて粛清しようとし
  た。遺骸を引き取りにきた同志は、藤堂平助、篠原泰之進、
  鈴木三樹三郎、服部武雄、毛内有之助、富山弥平衛の7名で
  あった。この待ち伏せによって、新選組結盟以来の生え抜き
  隊士で元八番隊組長を務めた藤堂平助のほかに、服部武雄・
  毛内有之助の3名が討死した。(一部略)伊東ら4名の遺体
  は、慶応4年2月、鈴木三樹三郎らによって泉涌寺塔頭戒光
  寺に改葬された。この葬儀は大名にも珍しいほど盛大で、雨
  天の中、生き残りの衛士7名は騎乗、その他150人ほどが
  野辺送りをし、その費用は新政府参与の役所から出されたと
  いうことである。 ──ウィキペディア「油小路事件」より
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伊東甲子太郎暗殺現場.jpg
伊東 甲子太郎暗殺現場
posted by 平野 浩 at 04:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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