のです。
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1.刀の鞘
2. 下駄
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「刀の鞘」について考えましょう。部屋が狭いので、あらかじ
め刀の鞘は抜いて攻めるというのは合理的な考え方です。しかし
ことが終ったあとでそれを忘れていくでしょうか。
鞘を忘れるというのは、事態が切迫している場合です。土佐藩
邸から応援に駆けつけてくるなど急いで立ち去る事態が発生した
ときです。しかし、暗殺は一瞬にして終り、中岡にとどめを刺そ
うとした男にもう一人の男が「もうよい」といってゆうゆうと立
ち去っているのです。そんなとき、鞘を忘れるでしょうか。
それに鞘を忘れるということは抜き身、しかも血刀を剥き出し
にして帰るということです。時刻はまだ午後10時頃であり、雨
は降っていたとはいえ、途中で人に会う可能性はゼロではないの
です。そんな危険なことをするでしょうか。
したがって鞘はあらかじめ近江屋に持ち込み、わざと放置して
いったものと考えられます。襲撃犯を偽装するためです。しかも
その鞘は非常に特徴のあるものであったのですが、これについて
は改めて述べます。
もうひとつの物証は「下駄」です。それもただの下駄ではない
のです。「瓢亭」の焼き印のある下駄なのです。「瓢亭」は、新
選組御用達の料亭であり、その料亭の下駄を忘れるということは
下手人は新選組であることを示す証拠になります。これも明らか
に偽装でしょう。ちなみに下駄は左右一足です。これが片方なら
かえってリアリティが感じられるのですが・・・。
暗殺の翌日、近江屋の主人の新助は瓢亭まで行って、瓢亭から
昨夜新選組の人に下駄を貸したという証言を引き出しています。
しかし、単に龍馬に宿を提供していたに過ぎない新助がなぜそこ
までするのかという点に違和感を感じます。どうも近江屋も龍馬
の暗殺に一枚噛んでいた可能性が高いのです。
ここに注目すべきことがあります。高台寺党の伊東甲子太郎は
事件後、かなり早い時点で近江屋を訪れ、鞘は新選組の原田左之
助のものであると証言しているのです。そのとき、中岡はまだ息
があり、襲撃犯が「コナクソ」と叫んだという話を土佐藩の谷干
城が聞き出していたところであったというのです。
「コナクソ」というのは、「このやろう」とか「こん畜生」と
いう意味の「伊予松山の方言」なのです。実は鞘の持ち主の原田
左之助は四国の伊予松山の出身なのです。この伊東甲子太郎は事
件の3日前にも近江屋に龍馬を訪ね、新選組が龍馬を狙っている
から注意せよと龍馬に警告しているのです。彼は早くから龍馬の
居所を知っていたことになります。
このように見ていくと、遺留品や瀕死の中岡が発した言葉が、
いかにも襲撃犯人が新選組であることを指向しています。犯人が
中岡のとどめを刺さなかったのは、中岡に「コナクソ」などとい
う言葉を喋らせる狙いがあったのではないかとも思われます。
龍馬と中岡の暗殺現場にいち早く駆けつけたのは谷干城です。
谷干城は、自らが土佐藩の上士でありながら、郷士の坂本龍馬を
尊敬し、生涯をかけて龍馬の暗殺犯を追ったのです。そして、谷
が一番疑ったのは新選組であったのです。
そのため、谷干城が戊辰戦争で流山で捕えた新撰組局長の近藤
勇を尋問し、斬首、獄門という重罪で処刑したのは、龍馬の仇を
とったつもりだったのでしょう。しかし、龍馬の暗殺犯は新選組
ではないことがはっきりしているのです。
龍馬が暗殺された慶応3年(1867年)11月15日夜、近
藤勇をはじめとする新選組幹部は島原の角屋という料亭で会合を
開いており、そのような日に龍馬を暗殺するはずがないのです。
つまり、近藤勇には当夜アリバイがあったのです。
また、伊東甲子太郎が証言した現場に残された鞘の持ち主が、
新選組の原田左之助のものであるということについても他の史料
によると「新選組のもの」とはいったが、原田左之助のものとま
ではいっていないようなのです。
さらに谷干城が瀕死の中岡から聞き出したという「コナクソ」
については、事件当時谷は、まったく口にしておらず、事件から
40年が経過した明治39年(1906年)に谷が行った講演の
さいにはじめて口にしたものなのです。出血多量で意識が途絶え
勝ちの中岡がどこまで話しているのか確証がないのです。
もうひとつ述べておくことがあります。近江屋についてです。
通説では、龍馬は近江屋にきたとき、しばらく土蔵に身を隠して
いたといわれています。しかし、龍馬は風邪を引いて体調を崩し
近江屋の2階に移動したということになっています。
しかし、これについては疑問があります。当時龍馬は強い警戒
心を持っておらず、不便な土蔵に入るはずもないし、龍馬が土蔵
にいたことを示す史料は一切ないのです。これについて、菊池明
氏は次のように述べています。
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実は、近江屋では11月15日に事件が発生するまで、龍馬を
ただの「一下宿人」として遇していたのみで、格別の対応はし
ていなかったのではないだろうか。しかし、明治期になって龍
馬の評価を知り、「土蔵」という「セキュリティーシステム」
を設けていたことを、誰に対してということもなく、申し立て
たのではないだろうか。そこには、龍馬を救えなかった無念さ
といくらかの保身があったのかもしれない。 ──菊地明著
『坂本龍馬』より/PHP研究所刊
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近江屋が龍馬暗殺の状況について必ずしも正確に述べていない
ことは明らかなのです。それが謎を一層濃くさせたことも確かな
ことです。 ── [新視点からの龍馬論/78]
≪画像および関連情報≫
●土佐の人物伝/谷干城とは何か
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1837年、高知城下に土佐藩士・谷万七(まんしち)の第
4子として生まれ、1859年、江戸に出て安井息軒の弟子
となって学びました。その後、土佐に帰国して藩校・致道館
で史学助教授となりました。このとき武市半平太と知り合っ
て友人となり、尊王攘夷運動に傾倒します。しかし1866
年、藩命で長崎を視察したとき、ここで後藤象二郎や坂本龍
馬と交わって、攘夷の不可なるを悟り、次第に倒幕へ傾いて
いったといわれています。
http://www17.ocn.ne.jp/~tosa/tani/tani.htm
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谷干城


