2011年01月31日

●「龍馬襲撃犯人は本当に見廻組なのか」(EJ第2986号)

 永井玄蕃頭の宿舎である大和郡山藩邸の道路を挟んだ目の前に
松林寺というお寺があります。現在は石段しか残っていませんが
そこは、見廻組組頭・佐々木只三郎の宿舎だったのです。
 坂本龍馬は、永井尚志のところに頻繁に訪ねているのですが、
彼はほとんど警戒していないので、その姿を当然佐々木らに見ら
れていた可能性は十分あります。
 龍馬が大政奉還後の政局について、永井の意見を求めていたの
は確かですが、もうひとつ交渉事があったのです。それは、宮川
助五郎という土佐藩上士の男の釈放問題です。
 このとき宮川助五郎は、大政奉還後に三条大橋に建てられてい
た幕府の高札を引き抜いて川に捨てたとして、見廻組に身柄を拘
束されていたのです。これに対して京都守護職より土佐藩邸に対
して事情の問い合わせがきていたのです。
 この問い合わせについて土佐藩の重役大目付福岡孝弟、留守居
役中村禎助は、後々の面倒を恐れて宮川を脱藩者扱いにして、そ
のような者は知らぬ存ぜぬと逃げ切りを図ったのです。
 この事実を掴んだ中岡慎太郎はその件を龍馬に相談したところ
龍馬は永井と交渉し、穏便に済ませるよう取り計らったのです。
しかし、かたちの上では正式に土佐藩が対応する必要があるので
龍馬は嫌がる福岡孝弟と同道して永井に会いに行き、宮川釈放の
約束を取り付けたのです。
 龍馬と中岡が暗殺された当日、中岡が龍馬のいる近江屋に行っ
たのは、宮川の釈放についての相談であったと思われるのです。
そのため、龍馬は何回も福岡孝弟を誘いに行ったのです。宮川の
釈放後のことについて3人で相談したかったからです。しかし、
福岡は居留守を使って会おうとしなかったのです。
 このことが事実であるとすると、福岡孝弟は問題のある人物と
いうことになります。なぜなら、龍馬と中岡暗殺後、福岡はすぐ
近くにいながら近江屋に駈けつけるわけでもなく、葬儀にも出席
せず、土佐藩の仲間たちからもその冷淡な態度について非難を浴
びたからです。ちなみに龍馬と中岡が暗殺された翌日、宮川助五
郎の身柄は約束通り釈放されているのです。
 さて、こういう状況下において永井は佐々木に指示して龍馬の
暗殺を行わせるでしょうか。「龍馬を捕えてはならない」という
命令は本当に出ていたのでしょうか。
 そういう指令が慶喜から出ていたかどうかはわかりませんが、
事実上龍馬はその時点で「お尋ね者」ではなくなっていたはずで
す。なぜなら、大政奉還が行われたとはいえ幕府機関はまだ機能
しており、上から不逮捕命令が出ていない限り、永井や見廻組は
職務上龍馬を逮捕しなければならないからです。
 それをしていないということは、龍馬はその時点でお尋ね者で
はなくなっていることを意味しています。まして京都守護職の松
平容保までが龍馬と会っているということは、それはより上から
の命令が出ているということであり、見廻組の組頭である佐々木
只三郎が単独で部下を率いて龍馬を暗殺することなど考えられな
いことなのです。しかし、もっと下のクラスの人間が「あの野郎
けしからん」といって、龍馬を襲う可能性は十分あるでしょう。
 ところが現在の通説では、龍馬と中岡の暗殺は、京都見廻組の
犯行ということになっています。果たしてこれが正しいのかどう
か、犯行の現場から考えてみることにします。
 龍馬が暗殺される直前の近江屋には誰がいたのでしょうか。通
説としては次の6人です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 ≪2階≫
  ・坂本龍馬/中岡慎太郎/龍馬の下僕の藤吉
 ≪1階≫
  ・近江屋の主人夫婦/使用人1人
―――――――――――――――――――――――――――――
 直前まで本屋「菊屋」の息子の峯吉がいたのですが、龍馬に頼
まれて、軍鶏肉を買いに「鳥新」に行っており、近江屋を離れて
いるのです。そのとき書生が3人が2階にいたという説もあるの
ですが、真偽のほどはわかっていないのです。なお、藤吉は1階
にいたという説もあります。
 夜9時を過ぎた頃、「十津川郷士」と名乗る男が龍馬を訪ねて
きます。2階にいた藤吉が1階に下りて応対します。こういうこ
とはよくあることであり、藤吉は怪しまなかったのです。藤吉は
名札を受け取り、2階に上ると、3人の男がそれに従い、藤吉が
階段を上がり切ったところで、背中から斬りつけたのです。
 悲鳴を上げて倒れる藤吉の物音を聞いた龍馬は、誰かがふざけ
ているのだと思い、「ホタエナ(静かにしろ)」と一喝します。
その瞬間、抜刀した2人の男が部屋に乱入し、いきなり龍馬と中
岡に斬りかかったのです。そのとき一人は「コナクソ」と叫んで
斬りつけてきたというのです。
 最初の一撃で龍馬は深手を負い、それでも何とか刀を取ろうと
したところを右肩から背中を斬られてしまいます。ほとんど即死
の状態です。一方、中岡は刀を屏風の後ろに置いていたので、脇
差で応戦したのですが、両手足を斬られ意識を失って倒れます。
1人がとどめを刺そうとすると、もう一人は「もうよい」といっ
て引き上げたというのです。
 抜刀して斬りつけたのは3人、龍馬と中岡には2人が襲い、2
階の階段の上に藤吉を斬った男が1人、階段の下にももう1人い
て、さらに1人が1階にいたのです。階段の下にいた男がリーダ
ーと思われ、もう1人は近江屋の主人夫婦と使用人を見張り、さ
らに戸口の外に3人が見張りに立っていたと思われます。
 階下の5人は、物音を聞いて目の前の土佐藩の藩士が駆けつけ
てきたときの備えと思われます。全部で8人が龍馬暗殺を実行し
たと思われます。まさに水も漏らさぬ必殺の刺客の配置です。
 そのため、このような体制を組めるのは、京都見廻組か新選組
しかいないと思われたのです。  [新視点からの龍馬論/77]


≪画像および関連情報≫
 ●佐々木只三郎とは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  1834(天保4年)〜1868年(慶応4年)会津藩士・
  佐々木源八の三男として会津で生まれる長兄は、会津公用人
  の手代木直右衛門である。佐々木只三郎は、龍馬暗殺者の候
  補の一人にあげられているが、その真相はまだ、謎である。
  「武骨で、真面目で、男の可愛さがある」。私は、只三郎を
  そんな風に見ている。ちょうど、近藤勇とよく似ているのか
  も知れない。外見も、色浅黒く、笑うと両頬にエクボができ
  たというところも、勇と同じ。
         http://www.toshizo.com/thema/sasaki.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

佐々木只三郎.jpg
佐々木 只三郎
posted by 平野 浩 at 04:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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