2011年01月28日

●「龍馬不逮捕の保証は本当にあったのか」(EJ第2985号)

 前号でご紹介した中岡慎太郎犯人説──大胆な推理ではありま
すが、両者が倒れていた状況を考えると無理があると思います。
それに殺そうと思っている相手を前にして5時間も会話をすると
いうのも不自然です。
 龍馬が暗殺された慶応3年(1867年)11月15日の翌日
のことですが、越前藩の前藩主・松平春嶽は国元への書簡の中で
次の事実を伝えています。松平春嶽は龍馬の能力を買っており、
龍馬と連絡を取り合っていたので、相当の情報を握っていたと思
われます。
―――――――――――――――――――――――――――――
      龍馬を殺害したのは芋侍の仕業である
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで「芋侍」とは薩摩藩士を指しています。それほど薩摩藩
は疑われていたのですが、それに土佐藩も一枚噛んでいたのは間
違いないと思われます。
 龍馬がたびたび松平春嶽のもとを訪れていたのは、春嶽の側近
には優秀な人物が多くいたからです。慶応3年10月の終わりに
も龍馬は福井に行っています。後藤象二郎に頼まれて山内容堂の
書簡を松平春嶽へ渡すためです。そのとき、龍馬は春嶽の側近の
一人である三岡八郎(のちの由利公正)に会っています。
 龍馬は、慶喜が大政奉還で投げ出した政権を何とかスムーズに
新政府が引き継いで軌道に乗せることについて、誰よりも先んじ
て考えていたのです。
 そのひとつに「通貨発行権」の問題があります。大政奉還をし
たとはいえ、徳川慶喜は通貨発行権を保有していたのです。お金
を作れる権利ですから、これを使えば軍隊を強化し、幕府が息を
吹き返しかねないと龍馬は考えたのです。
 三岡三郎は通貨政策について誰よりも詳しく、現代風にいえば
「ミスター両」と呼ばれる存在だったのです。そのため三岡に教
わりに行ったのです。三岡は龍馬に対し、新政府にとって大切な
ことは、国民の人気を集めることであり、そのために新政府は、
通貨を発行して、経済をしっかりさせることであって、軍備はそ
の後のことであると説いたのです。
 こういう先を見て行動する龍馬に松平春嶽のように高く評価す
る人物もいる一方で、下級武士のくせに出過ぎた奴だと非難する
向きも多くあったのです。
 それにしても、暗殺される前の10日間ほどの龍馬の行動はあ
まりにも大胆過ぎるのです。それは徳川慶喜から出されていると
いう龍馬不逮捕命令を永井玄蕃頭から聞いていたからなのでしょ
うか。本当に龍馬不逮捕命令などあったのでしょうか。
 それには永井尚志(玄蕃頭)という人物に迫ってみる必要があ
ります。永井尚志は、龍馬に会ったときの印象を次のように述べ
ています。
―――――――――――――――――――――――――――――
 (坂本龍馬は)象二郎(後藤)とはまた一層高大にて、説も面
 白くこれあり。               ──菊地明著
             『坂本龍馬』より/PHP研究所刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで重要なことは、龍馬は寺田屋で幕府方の人間を何人か殺
傷しており、いわば「お尋ね者」なのです。そのお尋ね者が幕府
方の重臣である永井尚志のもとにたびたび訪ねており、永井の方
も龍馬に会っているのです。
 これをもってしても少なくとも永井は龍馬をもはやお尋ね者と
見ていないし、龍馬としてはその件は許されていると考えても不
思議はないといえます。それどころではないのです。京都守護職
をしていた会津藩主・松平容保にも龍馬は永井同席のもとに会っ
ているといわれています。
 これについては、史料としては『伏見寺田屋の覚書』の中に記
述があるそうですが、2006年11月1日夜に放映されたNH
Kの番組『その時、歴史が動いた』の「歴史の選択」で、会津藩
主の松平容保が永井尚志と共に龍馬に会ったことがあるというこ
とを伝えているので、本当のことなのでしょう。
 龍馬は楽天的な性格であり、人のいうことをすぐ信じてしまう
傾向があります。とくに自分の意見を聞いてくれる人には感謝し
心を開いてしまうところがあります。実際に永井は熱心に龍馬の
意見を聞き、質問にも率直に答えています。龍馬は永井について
次のようにいっているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
        あの玄蕃頭はヒタ同心にて候
                       ──菊地明著
             『坂本龍馬』より/PHP研究所刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 ここで「ヒタ」とは「ぴったり」という意味であり、お互いの
意見が通じていたことをあらわしています。しかし、永井自身は
そうであっても、永井の部下やその周辺にいる見廻組の幹部たち
はどう思っていたかはわからないのです。
 ちなみにそのときの永井尚志の宿舎は、二条城から200メー
トル北の日暮通り下立売下ル(現在の上京区)にあった元大和郡
山藩邸であり、このあたりは京都見廻組の警備区域になっていた
のです。そんな危険地域に龍馬は毎日のように永井を訪ねている
のです。福岡孝弟と一緒に行って会ったこともあります。
 龍馬はもともと楽天的な性格ですが、そういう危険なところに
行ってもちゃんと永井に会えるので、少し油断してしまったとい
うところもあると思うのです。
 もっとも永井も、この龍馬の頻繁な訪問には少し困ったとみえ
て、人目につきやすい昼間に来るのではなく、来るなら夜分にし
てくれと注文を出しているのです。永井としても痛くないハラは
探られたくなかったのでしょう。
           ――─  [新視点からの龍馬論/76]


≪画像および関連情報≫
 ●永井尚志(玄蕃頭)とは何者か
  ―――――――――――――――――――――――――――
  文化13年(1816年)11月3日、三河奥殿藩の第5代
  藩主・松平乗尹とその側室の間に生まれた。父の乗尹の晩年
  に生まれた息子で、すでに家督は養子に譲っていたことから
  藩主にはなれなかった。このため25歳の頃、旗本の永井尚
  徳の養子となった。嘉永6年(1853年)、目付として幕
  府から登用される。安政元年(1854年)には長崎海軍伝
  習所総監理(所長)として長崎に赴き、長崎製鉄所の創設に
  着手するなど活躍。         ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――
 ●写真出典/ウィキペディア

永井玄蕃頭.jpg
永井玄蕃頭
posted by 平野 浩 at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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