2011年01月27日

●「中岡慎太郎犯人説の信憑性」(EJ第2984号)

 EJ第2981号で龍馬と中岡の暗殺について、3つの可能性
を上げましたが、その中で最も可能性が低いと思われる仮説は、
おそらく「中岡慎太郎が仲間と一緒に龍馬を暗殺しようとして重
傷を負い、2人とも死亡した」という第3の可能性ではないかと
思います。
 この説を取るのは、『あやつられた龍馬』(祥伝社刊)の著者
加治将一氏です。龍馬が暗殺の3日前に陸奥宗光に宛てた謎の手
紙を分析し、そこからこの結論に至る壮大な推理はなかなか読み
ごたえがあります。
 詳細は同書を参照していただくとして、加治氏の記述に沿って
第3の可能性に至る推理を辿ってみることにします。犯行が行わ
れた慶応3年11月15日の夜は、非常に冷え込み、かなり雨が
降っていたのです。
 まず、考えてみるべきは、暗殺事件直後に現場に駆け付けた人
物です。加治将一氏によると、次の7人です。
―――――――――――――――――――――――――――――
 事件直後、現場に駆けつけたと言われているのは、谷干城(土
 佐藩)、毛利恭助(土佐藩)、田中光顕(土佐藩、陸援隊)、
 白峰駿馬(海援隊)、川村盈進(土佐藩医)、そして吉井幸輔
 (薩摩藩)。他には龍馬の使いから戻ったという本屋の倅、峯
 吉がいた。                ──加治将一著
             『あやつられた龍馬』(祥伝社刊)
―――――――――――――――――――――――――――――
 亡くなったのは、坂本龍馬、中岡慎太郎、龍馬のボディーガー
ドをしていた藤吉の3人です。土佐藩の人間が多いのは目の前が
土佐藩邸なので不思議はないといえます。
 しかし、一人だけ薩摩藩の吉井幸輔がいます。なぜ、薩摩藩の
吉井幸輔が現場に現れたのでしょうか。これには2つの説がある
のです。1つは、本屋の倅、峯吉が事件を陸援隊に知らせに走り
田中光顕が現場に駆け付ける途中で薩摩藩邸に寄って、吉井幸輔
に知らせたという説です。もう1つは、そのとき土佐藩邸にいた
田中光顕が事件を知らされ、自ら薩摩藩邸まで行き、吉井幸輔に
知らせたという説です。
 この本屋「菊屋」の倅の峯吉は、龍馬の暗殺にからんで重要な
役割をしているのです。15日の午後3時頃中岡慎太郎がかつて
下宿していた菊屋を訪れ、峯吉に同志への手紙を託し、返事を近
江屋に届けて欲しいと依頼しています。
 午後7時頃に峯吉は近江屋に訪れ、手紙の返書を中岡に渡して
います。その後峯吉は龍馬に軍鶏を買ってくるよう頼まれ、「鳥
新」に行くのですが、軍鶏をつぶすまで約30分待たされ、近江
屋に戻ったところ既に暗殺事件は終っていたというのです。
 そこで、峯吉は事件を知らせに陸援隊本部まで走ったと供述し
ているのです。しかし、目の前の薩摩藩邸でもなく、5分ほど離
れた場所にある海援隊詰所でもなく、約1時間もかかる陸援隊ま
で冷たい雨のなか、走ったというのです。しかし、この峯吉の供
述は疑わしいのです。そうであるとすると、陸援隊の田中光顕が
吉井幸輔に知らせたという話もウソということになります。
 それなら、吉井幸輔はどうして事件を知ったのでしょうか。吉
井幸輔といえば、龍馬が京都に入ったとき、危ないので薩摩藩邸
に入れと龍馬に提案し、断られています。吉井幸輔は、薩長同盟
を結んだあと、寺田屋で伏見奉行所の捕り手に取り囲まれ、負傷
した龍馬を、薩摩藩邸に避難させて介抱し、助けた一人です。
 しかし、加治将一氏は、吉井幸輔をアーネスト・サトウの配下
のエージェントであるとしています。そうなると、この吉井幸輔
も龍馬暗殺に一役買っているということになります。
 さて、龍馬暗殺が行われたあと駆けつけたとされる吉井以外の
土佐藩の5人は、瀕死の重傷を負いながらも生きていた中岡慎太
郎から暗殺犯に関する情報を聞き出したとされているのです。そ
れでいながら、それら一人ひとりの供述を聞きとると、どのよう
な人物が何人で近江屋を襲撃したのか──そういうディテールが
さっばりと見えてこないのです。何人かがウソをついて事実を隠
していることは明らかです。
 加治将一氏はここで実に大胆な推論を展開しています。一見突
飛なようですが、全414ページに及ぶ加治氏の本を読むと、そ
の推論が強い説得力を持って迫ってきます。
―――――――――――――――――――――――――――――
 当夜、集まったという連中は、事件後に駆けつけたのではなく
 事件の前から現場にいたのである。怪しまれるから、峯吉を持
 ってきただけの話だ。推測すれば目的を持って近江屋に乗り込
 んだのは中岡慎太郎、谷干城(土佐藩)、毛利恭介(土佐藩)
 田中光顕(土佐藩、陸援隊)、白峰駿馬(海援隊)。斬りつけ
 たのは中岡だった。物事に動じない胆の据わった中岡だったが
 さすがに龍馬の心がしみていた。真正直で柔和。しかしこの時
 龍馬にあったのは頑とした厳しさである。てこでも譲らない。
 無念だった。しかし、陸援隊隊長としてけじめをつけなければ
 ならない。武士としての魂が中岡を突き動かしたが、刹那、一
 瞬の迷いが生じた。その時だった、龍馬がとっさに応戦。中岡
 は傷を負って倒れるが、他の者が龍馬を斬り捨てた。田中が近
 江屋から薩摩藩邸に走った。結果を待つ吉井幸輔に、テロ完了
 を知らせに行ったのだ。「無事終わった」  ──加治将一著
             『あやつられた龍馬』(祥伝社刊)
―――――――――――――――――――――――――――――
 驚くべき推論であると思います。龍馬に斬りかかったのは、な
んと中岡慎太郎であり、事件後駆けつけたとされる中川をのぞく
6人は最初から襲撃犯として現場にいたというのです。
 もし、陸援隊の隊長が惨殺され、その知らせが陸援隊本部に届
いたのであれば、総勢300人を超える陸援隊の隊員が駆けつけ
たと思われ、現場は騒然としたと思われるのですが、現場は静か
だったのです。    ――─  [新視点からの龍馬論/75]


≪画像および関連情報≫
 ●アーネスト・メーソン・サトウについて
  ―――――――――――――――――――――――――――
  アーネスト・メーソン・サトウは、ミドルネームのメーソン
  が表しているように、正真正銘の石工の家系です。彼はイギ
  リスの外交官で、駐日領総事ラザフォード・オールコックや
  駐日公使ハリー・パークスの下で活躍し、明治維新に大きな
  貢献をした人物です。それは、22歳のサトウが「ジャパン
  タイムズ」に書いた「English Policy(英国策論)」に「徳
  川幕府を倒し、天皇と大名連合体が日本を支配しなければな
  らない」とあり、徳川が約束した兵庫開港の期日が遅れるよ
  うなことがあれば「イギリス政府は強制と流血に訴えると」
  したもので、この期日が2年後の1868年元旦であり、明
  治維新の年でした。この「英国策論」の翻訳が出回り、徳川
  についていた大名たちは浮き足立ち、維新勢力は勢いづき、
  明治維新という革命は成し遂げられ、1868年に明治新政
  府が発足しています
    http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/629.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

近江屋のシーン.jpg
近江屋のシーン
posted by 平野 浩 at 04:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
現在まで、何百何千人もの歴史研究家が
決定的な新資料が出てくるのを望む などと・・
いまだ十人十色の説なので このような説わ?
古今東西 人が争って、殺される原因わ不変
宗教、政治、金 この三つです
今までずーと政治情勢ばかりに縛られていました
宗教わないですねえ 残るのわ金
いろは丸、他のリベートで龍馬の懐にわ数千両
いや数万両位蓄財されていたでしょう
しかし龍馬亡き後、海援隊にその様な資金わ・・
その様な大金、何処に消えたのでしょう
武士でいながら商人のごとく、一人金儲け
京都の土佐藩邸の上士達わ快く想っていない筈
分かりますよねえ・・・皆金がほしい・・・横取
主犯の中岡慎太郎が龍馬に斬り付けたが
逆に刀を奪われ、脇差で応戦の末、瀕死の重傷
昼間の事件でわなく、夜の事件ですので私闘です
第一発見者達、谷干城 田中光顕 毛利恭助
白峰駿馬 吉井幸輔 峯吉
皆、その夜現場に居た共犯者たち ?????
何か思い出しませんでしょうか
オリエント急行殺人事件のような 構図ですねえ
警察組織や諸藩などが引き起こした事件でわなく
仲間同士のトラブルなのでわ
坂本龍馬わ誕生日に亡くなりましたが、偶然にも
オリエント急行殺人事件で助演女優賞を貰った
イングリット、バーグマンも誕生日に死亡
目に見えない 叫び を感じる一致ですねえ



Posted by 中務 慶一郎 at 2015年12月13日 18:09
◯◯は を、◯◯わ と書くのは女子だけかと(アラサー女子とかかな)
兎に角見苦しいです
Posted by ん〜 at 2019年01月06日 06:03
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