いう人は多いでしょう。NHKの大河ドラマ『龍馬伝』を観た人
はとくにそういうでしょう。
大河ドラマでは、土佐藩の事実上の藩主である山内容堂が龍馬
に説得され、大政奉還の建白書を書くという筋書きになっていま
すが、事実と異なります。容堂は龍馬に会っていないし、龍馬な
ど眼中になかったはずです。大政奉還のアイデアは後藤象二郎に
よるものと最初から信じて疑っていないのです。
なぜかというと、龍馬が下士のその下の郷士という身分であっ
たからです。容堂から見ると、人間以下の存在なのです。まして
郷士などは虫けらの類いなのです。容堂が人間を見る基準を士分
以上と考えていたからです。
そういう容堂に薩摩藩筋から「最近の龍馬の動きは度を過ぎて
いる。龍馬は処分すべきだ」という相談があったとすると、躊躇
なく後藤象二郎に対し「龍馬を殺れ!」という命令を出したと思
うのです。後藤としてはこの命令に困惑したと思いますが、主命
であって拒否は絶対にできないのです。
薩摩藩にしても土佐藩にしても、大政奉還前後に気になってい
たのは、龍馬の驚くべき説得力なのです。龍馬によって両藩の武
力討幕派が次々と説得されつつあったからです。
龍馬はどのような人に対しても会う価値があると考えると、積
極的に会おうとし、新しい日本のあり方を説いて同意を求めるの
ですが、龍馬の話に心を動かされる人が増えてきたのです。これ
は武力討幕派である薩摩藩にとっては深刻な事態といえます。
土佐藩が龍馬暗殺に加担したことを示唆するある人物の行動が
あります。福岡孝弟(たかちか)がその人です。福岡は土佐藩士
で、実家の禄高は180石であり、上士の中では中くらいに位置
していました。いいとこの御曹司です。福岡は次男でしたが、兄
が病弱のため、家督を継いだのです。
安政2年(1855年)4月、吉田東洋が長浜で少林塾を開く
と孝弟は入門し、東洋から学問を学ぶことになります。このとき
この吉田東洋の私塾には神山左多衛や松岡七助、そして後藤象二
郎らが学んでいたのです。
福岡孝弟が龍馬と親交を深めるのは、薩長同盟成立以後のこと
です。福岡は慶応3年3月、長崎へ出張したときに龍馬と会談し
龍馬の考え方や人となりを知るのです。その結果、龍馬や中岡慎
太郎は土佐藩に必要な人材と判断して、後藤象二郎と独断で2人
の脱藩の罪を赦免するのです。
龍馬はそういう福岡孝弟を非常に頼りにしていたのです。龍馬
の暗殺日当日のことです。午後に龍馬は福岡の宿舎を訪ねている
のです。そのとき福岡の宿舎は大和屋といって、近江屋の三軒隣
りにあったのです。
しかし、福岡孝弟は土佐藩の重役であり、藩が用意した邸宅を
持っていたのです。大和屋というのは、芸者のいる料亭のような
ところだったようです。どうしてそのようなところに福岡は住ん
でいたのでしょうか。
龍馬が大和屋を訪ねたとき、福岡は留守だったのです。これに
ついては、居留守であったという説があるのです。留守番をして
いたおかよ(後に福岡の妻になる)が応対しています。
ところが、それからしばらくして龍馬はもう一度大和屋を訪ね
ているのです。しかし、そのときも福岡は帰宅していなかったの
です。最初に居留守を使っていればいないのは当然のことです。
よほど家にきてもらいたかったのでしょう。そのとき、おかよに
対して次のように誘っているのです。
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福岡は帰りが遅くなるから、うちに来なさい
──磯田道史著『龍馬史』/文藝春秋社刊
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福岡は龍馬と仲がよかったのです。お互いに家を訪ね、酒を飲
みながら、いろいろなことを話し合っています。それなのに福岡
はなぜ龍馬の誘いに乗らなかったのでしょうか。
福岡はおそらく龍馬がいずれ殺されることを知っていたのでは
ないかと思われます。ちょうどその日に暗殺が実行されることは
知らなかったと思いますが、近いうちに暗殺が実行されることは
わかっていたのです。そのため、危険なので、うっかり龍馬の誘
いに乗れなかったのでしょう。
もうひとつ不思議なことがあるのです。福岡は龍馬の葬式に出
なかったのです。これについては龍馬と親交のあった土佐藩の友
人たちは、福岡のことを強く批判しています。
龍馬暗殺に土佐藩はどのようにかかわったのでしょうか。
龍馬暗殺に直接にかかわったのは、新選組と見廻組であるとい
うのが通説です。しかし、もし新選組と見廻組が犯人であるなら
なぜ犯行声明をしないのかということです。
当時の新選組は警察で、見廻組は検察に該当します。建前では
彼らは幕府を守るために龍馬を狙っているのではなく、龍馬が犯
罪を犯しているので、追っているのです。龍馬は寺田屋事件のさ
い、ピストルで幕府方の役人を何人か殺傷しており、指名手配犯
人なのです。逮捕するのは当然であるし、当時のことですから、
龍馬を殺害したとしてもそれは公務なのです。
したがって、新選組と見廻組がそれをやり遂げたのであれば、
堂々と犯行声明をするはずですが、それをしていない──これは
新選組と見廻組の犯行ではないということを示唆しています。そ
れに加えて、徳川慶喜は「龍馬を捕えてはならない」という指示
まで出しているのです。
推理ドラマにおける犯人は、最も怪しくない人が犯人であるこ
とが多いですが、龍馬暗殺の場合もそれはいえると思います。こ
こまでEJでは、背後に英国と薩摩藩がいて、それにプラス土佐
藩と実行犯がいるというところまで、推理してきています。
――─ [新視点からの龍馬論/74]
≪画像および関連情報≫
●福岡孝弟とは何者か
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天保6年(1835年)、土佐藩士・福岡孝順の次男として
生まれる。安政元年(1854年)、吉田東洋の門下生とし
て後藤象二郎や板垣退助らと共に師事しその薫陶をうけた。
安政5年(1858年)、吉田の藩政復帰に伴なって大監察
に登用され、後藤らと若手革新グループ「新おこぜ組」を結
成して藩政改革に取り組む。 ──ウィキペディア
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●写真出典/ウィキペディア
福岡 孝弟



「…どうして薩摩黒幕説は生まれたのか。それは『うわさ話』を信じたからだ。同時代史料に、 薩摩が龍馬を殺したと伝えるものはたしかにある。肥後細川家情報に『坂本を害し候も薩人なるべく候』(改訂肥後藩国事史料)、これを信じてはダメだ。事実認定には、ニュースソースがなにかを問題にしなくてはならない。龍馬暗殺は、まず土佐関係史料が信用にたる。最も良質の史料が集まっているはずだから。もし、薩摩が黒幕なら当事者の島津家の史料が重要となる。が、話題の情報はいずれとも縁のない細川家のものだ。情報源がわからない以上、信用にたるかどうか判断できない。
そういうあやしいものは捨てる、これが歴史研究の原則だ。
もしかしたら、『事実』かも知れない。でも捨てる。そのストイックな姿勢が確実な事実のみを浮かび上らせるくるのだ…(薩摩藩暗殺説論者は)維新史の知識が希少なうえ、史学の史料批判の技術を習得していないといわざるをえない…」
とは、はて、おめでたい歴史研究の原則と言わざるを得ません。
こうした視点で、歴史的事実に近づけると思っているのなら、う〜ん…霊山の木村氏に対抗して、さあその信用は足るかどうか。
これをして、F・アリエス著歴史の時間〜学問的歴史学 (杉山光信訳みすず書房)を読まれたい、とネットでの書き込み指摘もされています。
自分は歴史地理者だから、歴史学、歴史研究者でないというのは逃げ口上の何ものでもありますまい。
いわゆる、歴史的認識と歴史的事実は違うのであり、史料は傍証的であり、中村半次郎が赤松小三郎暗殺を自身の日記に記した例はあるにしても、暗殺が史料に残される事の期待は、それ自体全く可笑しくもあります。
証拠不在は不在証拠にならないのであり、薩摩黒幕説は薩摩藩総意ではありませんね。
序でながら、日本史籍協会の雑4に興味深い記述。
「…初メ盗(暗殺者たち)、谷干城・毛利某(恭助)ノ旅館ヲ窺フ、二人見エス。転シテ坂本ノ寓ニ到リ変ニ及フ」
つまり、当初は谷干城と毛利恭助(いずれも土佐藩・上士勤王派)に変を及ぼそうとしていたがいなかったから、近江屋に向かった?
あるいは、2人の所に龍馬がいないか、と暗殺者等は伺ってから、そこにいなかったので、龍馬は近江屋にいる、として向かったと云うのです。
〇「…寺町ニ川村盈進入道ニ行合…」(慶応元年9月7日権平・乙女・オヤベ宛)
〇「入道盈進までおんこし被成候…もし入道盈進がおくに二かへり候時ハ、伏見二て…」(同9月9日乙女・オヤベ宛)
この入道川村盈進、龍馬旧知なんですが、医師として土佐藩から駆けつけて死体検案書を作成したとされていますが、この検案書って、なぜないんでしょうねえ。
なぜ土佐藩検案書がないのか…。
風聞では数十年前、元美術館の館長が秘匿している、とかで流れました。
そしてまた田中・谷証言より前に駆けつけたのは海援隊士・土岐真金であったのですが、何も触れていません。
「…該事件ヲ福岡藤次氏ノ通知ニ依リ岡本健三郎ト同行シテ該処ニ到リ、未絶命石川氏ノ介抱シテ陸援隊田中光顕氏等ニ通シ田中氏来ル。才谷及石川氏等ノ暗殺セラレシヲ話シ石川氏ノ遺言ヲ通ズ…」(土岐真金履歴書扣-直孫個人蔵)
従って谷や田中証言には、口も聞けない中岡からは聞けた直話ではないと考えられます。
この辺りは如何でしょうか?
或いは、海援隊の長岡謙吉も狙われていたという「寺村左膳道成日記」11月18日の記述。
「今夜、御国脱走人長岡謙吉ト申者、福岡へ対面之為松本ヘ来候処、素リ才谷、石川同断之者ニ付、
会、桑、新選組等之目をソソグ所となり、既ニ今夜右長岡之跡付来候者有之よし密ニ告るもの有り、依而俄ニ松本より裏道を開キ河原へ出し、立退カセタリ…」