ですが、問題は土佐藩と龍馬の関係です。そこで暗殺直前の龍馬
の行動を追ってみることにします。
慶応3年(1867年)10月10日、龍馬は、中島作太郎と
一緒に大阪より京都に出てきています。中島作太郎は、亀山社中
以来龍馬と行動を共にしている若手であり、温厚にして学問がよ
くできて実務がこなせるので、しばしば龍馬の代理を務めること
が多かったのです。
そのとき、龍馬が宿をとったのは、河原町三条下ルの「酢屋」
だったのです。酢屋は土佐藩吏官舎が近くにあり、多くの土佐藩
の知り合いが住んでおり、土佐京都藩邸にも近かったので、龍馬
はよく利用していたのです。
しかし、龍馬は中島と別れ、10月13日に酢屋から近江屋に
宿を変更しているのです。近江屋は、河原町通り蛸薬師下ルにあ
り、目の前に土佐藩邸があるのです。ここから土佐藩邸までは約
5メートルほどしかなく、何かがあればすぐに駈けつけることが
できる距離にあります。
酢屋から近江屋へ──龍馬のこの宿舎変更は何を意味している
のでしょうか。
宿舎の変更は、龍馬自身が表面上の磊落さとは裏腹に内心相当
の危機感を当時抱いていたために行われたと考えられるのです。
しかし、京都に入った龍馬に対し、薩摩藩の吉井幸輔は、薩摩藩
邸に入れと勧めたのですが、龍馬はこれを断っています。それは
既に薩摩藩は武力討幕に完全に傾いており、龍馬とは意見が対立
していたからです。
一方、龍馬は寺田屋の女将のお登勢からも京都は危険なので、
土佐藩邸に入ることを勧める手紙を受け取っています。お登勢は
宿泊客の会話から龍馬が狙われていることを聞き、知らせたので
す。これに対し、龍馬は永井玄蕃頭から身の安全については保証
されているから安心せよとお登勢に返事をしています。
しかし、龍馬の本心は土佐藩邸に入りたかったのではないかと
思われるのです。龍馬の暗殺について書かれた本を読むと、龍馬
は土佐藩邸の堅苦しさを嫌っており、後藤象二郎も龍馬に対し、
危険だから土佐藩邸に入れと勧めていたにもかかわらず、龍馬は
それを断ったとあります。
しかし、実際には、土佐藩邸に入れてもらえなかったのではな
いかと思われるのです。このとき龍馬は海援隊の隊長を務め、脱
藩も許されていて、正規の土佐藩士であったので土佐藩邸に入る
資格はあるにもかかわらず、何らかの事情で入れてもらえなかっ
たのではないかと推測されるのです。
そのため龍馬は、土佐藩邸の目の前にある近江屋に宿をとった
のではないかと思われるのです。近江屋であれば大声を上げるだ
けで藩邸から応援が呼べると考えたのでしょう。
確かにその時点で龍馬は、新選組や見廻組に対しては警戒心を
解いていたと思われます。史料はないものの、龍馬は永井玄蕃頭
だけでなく、永井の紹介で会津肥後守(松平容保)にも会ったと
いわれており、徳川慶喜の指示で身の安全が保証されていること
を聞いていたからです。
しかし、龍馬がそういう幕府方の重鎮にたびたび会っているこ
とを快く思わない勢力があったのです。それは、英国公使パーク
スとその書記官のアーネスト・サトウ、それと一体になって動い
ている薩摩藩の首脳たちです。
龍馬の理解では、パークス英国公使は本国英国の指示もあり、
できるだけ国内戦争は控える方針であることを確信していたので
す。薩英戦争のさい、当時のニール代理大使とキューパー提督が
下関を砲撃して大火災を起こしたことによって解任されているこ
とを知っていたからです。したがって、最悪の場合、国内戦争に
発展する事態になれば、パークス公使はそれを止める働きをする
はずだと考えたのです。
しかし、パークスは実にしたたかな外交官であり、龍馬はそれ
を読み誤ったのではないかと思われます。パークスは、表面的に
は平和路線を取りながら、裏側ではサトウに、武力討幕路線の薩
長──この時点で動けたのは薩摩藩のみ──と組んで討幕を推進
させていたのです。つまり、サトウはパークス公使の指示によっ
て英国の別働隊として行動していたのです。
そういうサトウからみると、幕府の重鎮に頻繁に会う龍馬の行
動は討幕路線を阻む抵抗勢力にみえたのです。そこでその排除に
乗り出したとしても不思議はないのです。
しかし、サトウが薩摩藩と組んで龍馬排除をやると、土佐藩が
離反し、討幕体制が弱体化することになります。そのため、何ら
かのかたちで土佐藩にも手を打ったと考えられるのです。土佐藩
も相手が英国であるため、それを受け入れざるを得なかったもの
と思われます。
しかし、土佐藩はもともと討幕には反対の立場であり、その平
和路線で行動している龍馬を暗殺するのは忍びなかったと思われ
ます。そのため、消極的な対応をとったのです。消極的な対応と
は、次の2つのことを意味しています。
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1.龍馬とは意見の異なる中岡慎太郎を実行犯として使う
2.薩摩藩がコントロールできる暗殺グループを活用する
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前回も述べたように、土佐藩は海援隊と陸援隊の2人の隊長が
暗殺されたのに目立った動きをしていないのです。これは龍馬が
暗殺されることを土佐藩は事前に知っていた証拠であると思われ
るのです。
しかし、そういうことが明らかになると、土佐藩としては大き
なダメ―ジを受けることになります。そのため、龍馬暗殺の犯人
が特定されないよう、さまざまな工作をしてその真相を覆い隠し
てしまったのです。 ――─ [新視点からの龍馬論/73]
≪画像および関連情報≫
●幕末の京都/「近江屋」跡
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京都の繁華街のど真中、四条河原町。今は旅行社になってい
るのですが、ここが龍馬と中岡慎太郎が刺客に暗殺された醤
油商「近江屋」があったところ。前出の「酢屋」が危険とい
うことで海援隊の長岡健吉の薦めでここに移ったのである。
1867年11月13日、新選組を脱退した伊東甲子太郎が
訪ねてきて「新選組や見廻組が狙っている。龍馬と慎太郎は
速やかに土佐藩邸に移れ」忠告したが移らなかった。14日
には寺田屋のお登勢が同じく危険と言う情報を持って訪問し
た。そして、15日午後9時頃に刺客に襲われることになっ
たのである。この時中岡慎太郎も一緒にいたのである。
http://web1.kcn.jp/sendo/jinbutsu/sakamotoryouma/shiryou/shiryou1.htm
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近江屋と土佐藩邸の位置関係


