徳川慶喜をはじめ人材はフルに活用して新しい政府を作る──そ
ういう主張をしていた赤松小三郎が暗殺された以上、同様の主張
をしていた龍馬が暗殺されても不思議はないのです。
グラバーは島津久光と会ったときに大政奉還によって幕府との
戦争が回避されるか、規模の小さいものに留まることに懸念を示
したものと思われます。大量に武器や艦艇を売りたいグラバーと
戦争に備えて大量の武器を抱え込んでいる島津久光の利害は一致
していたのです。「邪魔者は排除する」──これが薩摩藩の考え
方です。そういうわけで、久光が西郷に「龍馬を処分すべし」と
いう指示を出すことは十分あり得るのです。
それに龍馬がかなり頻繁に永井玄蕃頭に会っていることもグラ
バーや久光は気に入らなかったのです。「幕府に接近しているの
はけしからん」というわけです。
しかし、久光はともかくとしてグラバーは、龍馬の才能や行動
力を評価し、自分の手足のように使っていたのではなかったので
しょうか。そして共に武力討幕で動いていたはずです。
これについて加治将一氏は、グラバーが晩年(龍馬の暗殺後)
自分のことについて語ったインタビューの存在を紹介し、その中
で龍馬について次のように述べている事実を指摘しています。
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グラバーもまた、ある時期から龍馬を煙たく感じていたようで
ある。商売を教え込み、自分の下で使いたかったが、竜馬はす
るりと抜けて、天下国家の方へ駆け出していった。
──加治将一著『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
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要するに、龍馬はスケールが大きいのです。最初は尊敬する人
の下でいろいろなものを吸収しますが、それによって力がつくと
その人の許を離れ、より大きな目標に向かって突き進んでしまう
のです。グラバーはそういう龍馬に不信感を持ったのではないで
しょうか。
久光が西郷に「龍馬を処分すべし」と命令したとすると、主命
であるので、反対はできないのです。そして、久光の指示をおそ
らく中村半次郎に伝えたと思われます。
龍馬暗殺については、大久保利通もハラに決めていたのではな
いかと思われます。作家の岡本好古氏は『歴史スペシャル』(世
界文化社)/2010年12月号において、「情の西郷と冷淡な
大久保交錯する両者の想い」という見出しをつけて次のように述
べています。少し長いが引用します。
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官軍には、わが藩で造った大砲、小銃、それに坂本どんが外国
から仕入れてくれた新規の武器弾薬がふんだんにある。吉どん
日本を260余年間、自縄自縛させた悪魔の旧体制、徳川の藪
を根絶しょう。進撃と平定は極力速やかに。下手に戦況が長引
くと列強の狼たちが立ち入って、清国の二の舞になる。大政奉
還をして将軍が恭順しても、いぜん徳川の軍事力は健在で、恩
顧の連中がすんなり降伏恭順するとは思えない。恐れるのは、
幕府がその軍事力を背景に、瀕死の蛇が鎌首をもたげて、こち
らの算段が狂うことだ。江戸攻略の前に巧みな折衷案を持ち出
して、この前の公武合体に逆戻りするような成り行きである。
そうすると倒幕派と生き残りの幕府高官の合同政体にもなりか
ねない。この際、塵ほども和平や妥協にも応じてはならない。
だが、そのように取り運びかねない。また、それをやってのけ
られるずば抜けた俊才が一人いる。倒幕には火の玉になるが、
極力血を流したがらない御仁だ。わかってくれ。吉どん、御一
新成就の前の捨石だ。この際・・・ ──岡本好古著
『歴史スペシャル』/2010年12月号/『反対する西郷を
無視して大久保は「龍馬暗殺」を指令した』P31より
世界文化社刊
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もし、この西郷・大久保会談があったとした場合、それは慶応
3年(1867年)10月の中頃と思われます。そのとき、西郷
と大久保は一緒に京都にいたからです。大久保は龍馬の人並みは
ずれたスケールの大きさと行動力を警戒しており、龍馬の活躍に
よって、武力討幕が公武合体に逆戻りするのを恐れたのです。
それでは実際に龍馬を暗殺したのは誰かということになります
が、岡本好古氏は「伊東甲子太郎とその配下8人」であることを
示唆しています。
伊東甲子太郎とは何者でしょうか。
伊東甲子太郎は北辰一刀流の達人であり、元治元年(1864
年)8月末頃、人を介して新選組の近藤勇と会い、新選組に入会
するのです。伊東はかなり激しい尊王攘夷派なのですが、幕府を
守る佐幕の新選組になぜ入ったのかについては諸説があります。
伊東甲子太郎は新選組に入隊するとすぐ、近藤、土方に次ぐナ
ンバー3の「参謀」の地位を与えられますが、彼は文武両道に優
れ、隊士の人気を集めたといいます。しかし、ことごとく近藤・
土方と対立し、慶応2年9月26日に伊東に心酔する14名の隊
員と一緒に新選組から分離してしまうのです。
そして伊東たちは、薩長に庇護された「高台寺党」を結成して
活動を続けるのです。それに伊東の本心としては時代の趨勢から
薩摩に身を預けたかったようです。
ここに薩摩との接点が出てくるのです。伊東の本心を見抜いた
大久保利通は、伊東の「高台寺党」を使い、龍馬暗殺を命じたの
ではないかといわれているのです。これは「高台寺党犯行説」と
いわれますが、決定的な証拠はないのです。しかし、薩摩の影は
濃くなっています。
この高台寺党については、もう少し詳しく知る必要があるので
来週に取り上げる予定です。
――─ [新視点からの龍馬論/71]
≪画像および関連情報≫
●伊東甲子太郎とは何者か
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常陸志筑藩士(郷目付)・鈴木専右衛門忠明の長男として生
まれる。家老との諍いにより父忠明が隠居した後、伊東が家
督を相続したものの、後に忠明の借財が明らかになったこと
から追放される。伊東は水戸へ遊学し、水戸藩士・金子健四
郎に剣(神道無念流剣術)を学び、また、水戸学を学んで勤
王思想に傾倒する。追放後の忠明は東大橋(現:石岡市)に
て村塾(俊塾)を主宰し、遊学を終えて帰郷した伊東も教授
に当たった。のちに深川佐賀町の北辰一刀流剣術伊東道場に
入門するが、道場主伊東精一に力量を認められて婿養子とな
り、伊東大蔵と称した。 ──ウィキペディア
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伊東 甲子太郎


