次郎」の異名がありますが、彼がどういう人物だったかについて
少し紹介しておきます。中村半次郎について知ることによって、
彼が少なくとも自分の意思で赤松小三郎を斬ったのではないとい
うことがわかると思うからです。
中村半次郎については映画ができています。俳優の榎木孝明氏
が企画し、主役を演じた次の映画です。
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映画『半次郎』/2010年10月公開
企画・主演/榎木孝明/ビーズインターナショナル
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中村半次郎は薬丸自顕流の使い手であり、幕末には豪剣として
知られた人です。薩摩の剣としては、次の2つの「ジゲン流」が
あります。
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1.薬丸自顕流
2. 示現流
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今から1000年以上前のことです。朝廷の武官に伴兼行とい
う人がいたのです。伴兼行は薩摩に下り、大隅の豪族肝付氏の祖
先になったのです。肝付家というと、あの家老の小松帯刀は肝付
家の出身です。その肝付氏の分家に薬丸家があり、代々家老を務
めたのです。そして、肝付氏が島津氏に服属するにあたり薬丸家
も島津家の家臣になっています。
後に剣聖と呼ばれた薬丸兼武の代に示現流と分かれ、薬丸家は
「薬丸自顕流(自顕流)」と称するようになったのです。そして
兼武の長男の兼義のときに剣術師範家として藩から認められ、自
顕流は藩士──とくに下級武士の間で普及していくことになるの
です。こういうわけで、中村半次郎も薬丸自顕流を極めることに
なったのです。
大河ドラマ『龍馬伝』で、庭先で志士たちが十数本の木を束ね
て台の上に載せたもの(横木)を左右交互に打ち続ける練習風景
が何度も出てきましたが、あれは自顕流の練習なのです。
通常の剣術というものは、「一対一」の戦いを前提にしていま
す。しかし、自顕流は実際の白兵戦を想定しており、「一対多」
を前提とし、一人でいかにして多くの敵を倒せるかという実践的
な剣術なのです。
「初太刀を外せ」──新選組局長の近藤勇が、よく隊員たちに
いっていた言葉です。自顕流の剣は一撃必殺の剣であり、振り下
ろす剣は、地の底まで叩き斬るほどの気迫を込めたものであった
からです。
半次郎と同じ鹿児島生まれの榎木孝明氏は、中村半次郎の魅力
は「ぼっけもん(木強者)」そのものといっています。薩摩では
豪放磊落で快活な気性の人のことをそう呼ぶのだそうです。
中村半次郎の才能は天性のもので、剣術道場に入門しようとす
ると、道場主はひと目見ただけで「お前には教えるものはない」
といって断ったといいますので、相当の達人だったのです。
それでいて半次郎は、その才能をひけらかすことは絶対にしな
かったのです。半次郎は上級武士から「生意気だ!」といわれ、
何度も喧嘩を売られたのですが、いつも抵抗はしなかったそうで
す。そういう無駄なことには剣術を使わなかったのです。
それに中村半次郎はとても優しい人だったといいます。榎木孝
明氏は次のように述べています。
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半次郎は、援けを求めてきた相手にはすべて手をさしのべてい
ます。そしてそれは、たとえ自分の立場を悪くする人物に対し
ても同じでした。たとえば佐賀の乱で敗れた者たちが頼ってく
ると、政府から罰せられる危険性があるにもかかわらず、彼ら
を匿っています。西郷が見咎めると、半次郎は「おいの持病ご
わす。見過ごしてたもんせ」といって彼らを守り通すのです。
このようにして命を救った人間が何十人もいたのですが、これ
はなかなかできないことでしょう。 ──榎木孝明著
『日本人の美しさを伝えたい・・・薩摩の「ぼっけもん」の魅
力』/「歴史街道」/2010年10月/PHP
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また、中村半次郎は非常に礼にかなった行動を取る人であった
のです。半次郎についての有名なエピソードがあります。半次郎
には会津攻めの結果、最後まで徹底的に戦い、刀折れ矢尽きて降
伏した会津藩に政府代表として会津城を受け取りに行っているの
です。そのとき、半次郎の作法は非常に礼にかなったものであり
藩主の松平容保への接し方も礼を尽くし、きわめて温情的であっ
たといわれます。
そのとき、半次郎は、藩主の松平容保と対面したとき、藩主の
心情を察するあまり儀式が行われている間、男泣きに泣いいてい
たといわれます。松平容保は半次郎の温情的な戦後処理に感激し
秘蔵の刀を半次郎に贈っているのです。
このような半次郎が、いくら思想が相容れないからといって、
自ら師である赤松小三郎を斬るでしょうか。中村半次郎をよく調
べていくと、そういうことは絶対にしない人物であったことがわ
かってくるのです。
しかし、主命であったとしたら、どうでしょうか。
これに背くことは当時の武士ではできないことです。しかし、
中村半次郎は、その命令者についてはいっさい明かしていないの
です。ただ、日記において赤松小三郎殺害の事実を記述している
のみです。その命令者は、おそらく西郷隆盛か大久保利道あたり
であろうと思われます。武力による討幕という大きな目的を果た
すためには、その障害となるものはすべて取り除くというのが当
時の薩摩藩の考え方であったからです。
――─ [新視点からの龍馬論/70]
≪画像および関連情報≫
●自顕流について
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八相の構えより剣を天に向かって突き上げ、腰を低く落とし
た、示現流とは異なる「蜻蛉(トンボ)」の姿勢を基本とし
「横木打ち」を反復して練習する。ちなみに、時代劇などで
はよく「蜻蛉の構え」と言うが、「構え」とは防御の型を意
味する言葉なので薬丸自顕流の修業者はこの呼び方を嫌う。
薬丸自顕流は先制攻撃を重視する流派であり、万一、敵に先
制攻撃を仕掛けられた場合には、自分が斬られるより先に一
瞬の差で相手を斬るか、相手の攻撃を自分の攻撃で叩き落と
すかで対応する。防御のための技は一切無い。
──ウィキペディア
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映画『半次郎』


