2011年01月19日

●「赤松小三郎暗殺の下手人は薩摩藩」(EJ第2978号)

 赤松小三郎は信州上田藩士ですが、理数系に強い人だったので
す。江戸に出て数学と科学を学び、蘭学に英語までマスターして
います。その実力はまさに当代随一であり、オランダ人や英国人
と自由に意思疎通ができたというのです。あの勝海舟でさえ、赤
松の語学力や科学の知識にはとうてい及ばなかったことは前回述
べた通りです。
 こんな男を当時の雄藩がほおっておくはずがないのです。そし
て最初に目を付けたのが薩摩藩なのです。薩摩藩は薩英戦争を通
して英国の実力を思い知らされ、英国式軍制を取り入れようとし
たのです。
 そこで薩摩藩は、赤松小三郎を兵学教授として招き、慶応3年
(1867年)に京都の薩摩藩邸で英国式兵学塾を開講したので
す。そのときの門下生には、後の大日本帝国陸軍の少将になった
篠原国幹や日露戦争で活躍した元帥海軍大将・東郷平八郎らの薩
摩藩の次世代を担う多くの若者たちがいたのです。そしてもう一
人、後に人斬り半次郎と呼ばれるようになる中村半次郎もその兵
学塾で学んでいたのです。
 これによって各藩が赤松小三郎に注目するようになり、越前の
松平春嶽は使いを出して小三郎に建白書の提出を求めたのです。
その建白書が前回ご紹介した「御改正之一二端奉申上候口上書」
なのです。
 赤松の主張は次の一言に尽きるのです。しかし、これを薩摩藩
でやったことは赤松にとって不幸なことだったのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
            天幕一和
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 「天幕一和」とは、天皇家と幕府を合体させて平和的な政権を
作るという意味です。したがって、薩摩藩が一丸となって進めよ
うとしていた武力による討幕の思想に反するのです。
 そこでは日本人同士が争う愚かさを説き、幕府に大政奉還させ
て、平的的に新体制に移行させる思想に他ならなかったのです。
戦争には必ず勝者と敗者があります。まして日本人同士で戦争を
すると、勝者は奢りたかぶり、敗者を虐げて悲劇が生まれる。そ
して勝者の特定の出自の者たちが国を治める結果になる──そう
いう世の中にならないように平和的に改革を進めるというのが赤
松小三郎の思想なのです。
 考えてみると、この赤松小三郎も坂本龍馬も身分の低い家の出
身であり、そういう立場にならないとわからない苦労を重ねてい
ます。もっとも龍馬は家が裕福であったので、まだ恵まれている
方ですが、それでも相当苦労しています。そういう経験を踏まえ
ての提案であり、後藤象二郎のような上士出身の武士には絶対に
発想できない思想であるといえます。
 薩摩藩はこのようにして赤松を自藩の兵学教授として招きなが
ら、「危険な人物」として考えるようになったのです。そして、
赤松の評判が高くなるにつれて他藩はもちろんのこと、幕府や会
津藩までもが赤松を招こうとするに及んで、薩摩藩は警戒心を強
めたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 他藩はともかくとして、幕府で赤松の力が生かされては困る
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶応3年9月3日、赤松小三郎は上田藩からの帰国命令を受け
て帰藩することになったのです。その前日の2日の夜に薩摩藩の
門下生の有志が集まって、送別会が開かれたのです。
 そして9月3日、赤松小三郎は京都市内で知人に帰国の挨拶を
して回っているときに白昼暗殺されたのです。一体誰が暗殺した
のでしょうか。実は下手人は明治時代になってもわからず、それ
が判明したのは、昭和44年(1967年)12月のことであっ
たといわれています。次の日記に記述されていたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          「桐野利秋日記」
―――――――――――――――――――――――――――――
 「桐野利秋」といってもビンとこないと思いますが、薩摩藩士
の中村半次郎のことです。つまり、中村半次郎自身が赤松小三郎
を同僚と2人で暗殺したということを書いているのです。暗殺し
た理由は、赤松小三郎は「佐幕派」であるというものです。
 中村半次郎といえば、赤松が開講していた兵学塾の門下生であ
り、中村は師を斬り捨てたことになるのです。天幕一和は自分と
相い容れない思想だから斬る!──これが当時の薩摩藩の姿勢で
あったといえます。
 赤松小三郎は明らかに薩摩藩上層部の命によって暗殺されてい
ることは明らかです。それは、下手人が薩摩藩であることを隠す
ために次のような工作をしているからです。
―――――――――――――――――――――――――――――
      1.2種類の斬奸状を出していること
      2.葬儀に関して過大な弔慰金を贈る
―――――――――――――――――――――――――――――
 「斬奸状」は悪者を斬り殺すについて、その理由を書いた文書
のことです。薩摩藩はこれを2種類書いて市中に貼り出している
のです。
 さらに薩摩藩は葬儀に当って150両もの弔慰金を贈り、兵学
塾の門下生全員が葬儀に出席しています。それに加えて薩摩藩は
慶応3年12月に京都金成光明寺に小三郎の墓と碑を建立してい
るのです。
 このように赤松小三郎を暗殺したのが薩摩藩であるとすると、
龍馬を殺したのも薩摩藩ではないかという考え方が出てきます。
しかし、赤松と龍馬では薩摩藩との付き合いの長さが異なるので
す。赤松と違って龍馬の場合は薩摩藩とあまりにも親しかったか
らです。西郷などは龍馬を同志であると考えており、薩摩による
暗殺説は考えにくいのです。─  [新視点からの龍馬論/69]


≪画像および関連情報≫
 ●桐野利秋について
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  桐野利秋と言えば、前名を中村半次郎と言い、「人斬り半次
  郎」という異名を持つ人物として非常に有名です。桐野を主
  人公にした小説や講談では、彼は豪放磊落、典型的な薩摩隼
  人を象徴する人物として描かれ、桐野利秋と聞くと、「荒々
  しい武者」というイメージを想像される方が多いのではない
  でしょうか。しかしながら、小説などで描かれる桐野の姿や
  エピソードには、たくさんの虚説が入り交じっているため、
  彼の持つほんとうの実像とは大きくかけ離れた虚像が一人歩
  きし、彼の評価を歪めている現状になっていると私は感じて
  います。http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/kirino1.htm
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中村半次郎/桐野利秋.jpg
中村 半次郎/桐野 利秋
posted by 平野 浩 at 04:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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