す。江戸に出て数学と科学を学び、蘭学に英語までマスターして
います。その実力はまさに当代随一であり、オランダ人や英国人
と自由に意思疎通ができたというのです。あの勝海舟でさえ、赤
松の語学力や科学の知識にはとうてい及ばなかったことは前回述
べた通りです。
こんな男を当時の雄藩がほおっておくはずがないのです。そし
て最初に目を付けたのが薩摩藩なのです。薩摩藩は薩英戦争を通
して英国の実力を思い知らされ、英国式軍制を取り入れようとし
たのです。
そこで薩摩藩は、赤松小三郎を兵学教授として招き、慶応3年
(1867年)に京都の薩摩藩邸で英国式兵学塾を開講したので
す。そのときの門下生には、後の大日本帝国陸軍の少将になった
篠原国幹や日露戦争で活躍した元帥海軍大将・東郷平八郎らの薩
摩藩の次世代を担う多くの若者たちがいたのです。そしてもう一
人、後に人斬り半次郎と呼ばれるようになる中村半次郎もその兵
学塾で学んでいたのです。
これによって各藩が赤松小三郎に注目するようになり、越前の
松平春嶽は使いを出して小三郎に建白書の提出を求めたのです。
その建白書が前回ご紹介した「御改正之一二端奉申上候口上書」
なのです。
赤松の主張は次の一言に尽きるのです。しかし、これを薩摩藩
でやったことは赤松にとって不幸なことだったのです。
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天幕一和
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「天幕一和」とは、天皇家と幕府を合体させて平和的な政権を
作るという意味です。したがって、薩摩藩が一丸となって進めよ
うとしていた武力による討幕の思想に反するのです。
そこでは日本人同士が争う愚かさを説き、幕府に大政奉還させ
て、平的的に新体制に移行させる思想に他ならなかったのです。
戦争には必ず勝者と敗者があります。まして日本人同士で戦争を
すると、勝者は奢りたかぶり、敗者を虐げて悲劇が生まれる。そ
して勝者の特定の出自の者たちが国を治める結果になる──そう
いう世の中にならないように平和的に改革を進めるというのが赤
松小三郎の思想なのです。
考えてみると、この赤松小三郎も坂本龍馬も身分の低い家の出
身であり、そういう立場にならないとわからない苦労を重ねてい
ます。もっとも龍馬は家が裕福であったので、まだ恵まれている
方ですが、それでも相当苦労しています。そういう経験を踏まえ
ての提案であり、後藤象二郎のような上士出身の武士には絶対に
発想できない思想であるといえます。
薩摩藩はこのようにして赤松を自藩の兵学教授として招きなが
ら、「危険な人物」として考えるようになったのです。そして、
赤松の評判が高くなるにつれて他藩はもちろんのこと、幕府や会
津藩までもが赤松を招こうとするに及んで、薩摩藩は警戒心を強
めたのです。
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他藩はともかくとして、幕府で赤松の力が生かされては困る
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慶応3年9月3日、赤松小三郎は上田藩からの帰国命令を受け
て帰藩することになったのです。その前日の2日の夜に薩摩藩の
門下生の有志が集まって、送別会が開かれたのです。
そして9月3日、赤松小三郎は京都市内で知人に帰国の挨拶を
して回っているときに白昼暗殺されたのです。一体誰が暗殺した
のでしょうか。実は下手人は明治時代になってもわからず、それ
が判明したのは、昭和44年(1967年)12月のことであっ
たといわれています。次の日記に記述されていたのです。
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「桐野利秋日記」
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「桐野利秋」といってもビンとこないと思いますが、薩摩藩士
の中村半次郎のことです。つまり、中村半次郎自身が赤松小三郎
を同僚と2人で暗殺したということを書いているのです。暗殺し
た理由は、赤松小三郎は「佐幕派」であるというものです。
中村半次郎といえば、赤松が開講していた兵学塾の門下生であ
り、中村は師を斬り捨てたことになるのです。天幕一和は自分と
相い容れない思想だから斬る!──これが当時の薩摩藩の姿勢で
あったといえます。
赤松小三郎は明らかに薩摩藩上層部の命によって暗殺されてい
ることは明らかです。それは、下手人が薩摩藩であることを隠す
ために次のような工作をしているからです。
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1.2種類の斬奸状を出していること
2.葬儀に関して過大な弔慰金を贈る
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「斬奸状」は悪者を斬り殺すについて、その理由を書いた文書
のことです。薩摩藩はこれを2種類書いて市中に貼り出している
のです。
さらに薩摩藩は葬儀に当って150両もの弔慰金を贈り、兵学
塾の門下生全員が葬儀に出席しています。それに加えて薩摩藩は
慶応3年12月に京都金成光明寺に小三郎の墓と碑を建立してい
るのです。
このように赤松小三郎を暗殺したのが薩摩藩であるとすると、
龍馬を殺したのも薩摩藩ではないかという考え方が出てきます。
しかし、赤松と龍馬では薩摩藩との付き合いの長さが異なるので
す。赤松と違って龍馬の場合は薩摩藩とあまりにも親しかったか
らです。西郷などは龍馬を同志であると考えており、薩摩による
暗殺説は考えにくいのです。─ [新視点からの龍馬論/69]
≪画像および関連情報≫
●桐野利秋について
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桐野利秋と言えば、前名を中村半次郎と言い、「人斬り半次
郎」という異名を持つ人物として非常に有名です。桐野を主
人公にした小説や講談では、彼は豪放磊落、典型的な薩摩隼
人を象徴する人物として描かれ、桐野利秋と聞くと、「荒々
しい武者」というイメージを想像される方が多いのではない
でしょうか。しかしながら、小説などで描かれる桐野の姿や
エピソードには、たくさんの虚説が入り交じっているため、
彼の持つほんとうの実像とは大きくかけ離れた虚像が一人歩
きし、彼の評価を歪めている現状になっていると私は感じて
います。http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/kirino1.htm
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中村 半次郎/桐野 利秋