2011年01月18日

●「悲劇の志士/赤松小三郎とは何者か」(EJ第2977号)

 慶応3年(1867年)9月30日のことです。白昼路上で斬
り殺された志士がいます。その志士の名前は次の通りです。
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            赤松小三郎
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 勝海舟や坂本龍馬は知っていても、赤松小三郎の名前を知る人
は非常に少ないと思います。ところが、ちょうど昨年の1月、こ
の赤松小三郎を小説の形で取り上げ、発表した作家がいます。江
宮隆之氏であり、その書名は次の通りです。
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            江宮隆之著/河出書房新社
     『龍馬の影──悲劇の志士・赤松小三郎』
―――――――――――――――――――――――――――――
 赤松小三郎とは何者なのでしょうか。
 比較的はっきりしていることは、赤松小三郎は龍馬の作とされ
ている「船中八策」の原作者ではないか──そういわれているこ
とです。その原作書は次の名前で呼ばれています。
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      「御改正之一二端奉申上候口上書」
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 この建白書は、慶応3年(1867年)5月17日に、越前福
井藩主で、幕府の顧問をしていた松平春嶽に対して提出されたも
のです。どういう内容だったのでしょうか。ウィキペディアから
引用します。
―――――――――――――――――――――――――――――
 議会(赤松の訳語では「議政局」)は、定数30人の上局と定
 数130人の下局からなる二院制であった。上局は貴族院に相
 当し、その議員は、朝廷と幕府と諸藩の融和の象徴として、公
 卿と諸侯と旗本より選出される。下局は衆議院に相当し、その
 議員は、各藩を基礎とした選挙区から「門閥貴賎に拘らず道理
 を明弁し私なく且人望の帰する人」を、入札(選挙)によって
 公平に選ぶべしとされた。これは、身分にとらわれない民主的
 な普通選挙による議会政治を提言した文書として、日本最初の
 ものである。「国事は総て此両局にて決議」とされ、議会は国
 の最高機関と位置付けられている。   ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 これはきわめて民主的な議会制度の設立建白書であり、画期的
な内容ですが、ほとんどの歴史書は無視しています。どうしてで
しょうか。
 龍馬が奉じたとされる「船中八策」は、赤松の建白書のレジュ
メのような内容です。そのとき龍馬は長崎におり、5月15日に
いろは丸事件の決着に向けて紀州藩と折衝し、決着後の6月9日
に後藤象二郎と一緒に土佐藩船・夕顔丸に乗って12日には兵庫
に着いています。その船中で「船中八策」が龍馬より後藤に示さ
れたことになっています。
 もし、赤松の建白書が龍馬の船中八策の原本だとしたら、龍馬
と赤松の接点はないのです。ただ、6月12日以降に後藤と龍馬
は京都に入っており、物理的に龍馬と赤松の接点はあるのです。
船中八策とはいうものの、本当に船中で提示された確かな証拠は
ないのです。何らかの理由で赤松小三郎を伏せる意図が働いてい
れば、歴史は勝者によって書かれるといわれ、歴史的事実はどの
ようにでも書き換えられることになります。
 実は「御改正之一二端奉申上候口上書」と「船中八策」は酷似
しており、別々に考えられたものとは思えないのです。史料はな
いのですが、どこかで龍馬と赤松の接点はあった可能性はあると
いえます。
 赤松小三郎は、長崎海軍伝習所の設立から閉鎖までの4年間を
勝海舟と一緒に過ごしています。しかし、身分の低かった小三郎
は、正規の伝習生にはなれず、「組外従士」──つまり、勝海舟
の従者のようなかたちで参加できたといわれます。
 しかし、赤松小三郎のオランダ語能力は勝海舟をはるかにしの
いでおり、勝海舟は赤松をまるで通訳のように使っていたという
のです。
 航海術や測量術などの授業も勝海舟の語学力や知識ではついて
いけず、赤松の数学や科学の知識による補佐によってはじめて理
解することができたというのです。
 赤松小三郎は、長崎にいた4年間でオランダ語の原書を74冊
も読破し、一緒に参加している伝習生のためにテキストの翻訳ま
でやっているのです。明らかに、当時の伝習生は勝海舟も含めて
勝の従者でしかない赤松小三郎におんぶにだっこの状態であった
のです。こういう状況では、勝も含め他の伝習生も赤松の存在を
隠したくなるのは当然で、そういう意味から赤松の存在が伏せら
れたということはいえると思います。
 その後の赤松の活躍について、ウィキペディアの記事を引用し
て示すことにします。
―――――――――――――――――――――――――――――
 慶応2年(1866年)より、京都に私塾「宇宙堂」を開き、
 英国式兵学を教える。門下生には、薩摩・肥後・会津・越前・
 大垣などの各藩士から新選組の隊士までが含まれており、呉越
 同舟状態であった。ついで薩摩藩から兵学教授として招聘され
 京都の薩摩藩邸において中村半次郎、村田新八、篠原国幹、野
 津道貫、東郷平八郎ら約800人に英国式兵学を教え、藩士た
 ちの練兵も行った。薩摩藩の兵制を蘭式から英式へと改変する
 のに指導的役割を果たした。      ──ウィキペディア
―――――――――――――――――――――――――――――
 勝海舟は龍馬に関しては、明治に入って多くのことを語ってい
ますが、赤松小三郎についてはほとんど語っていないのです。な
ぜなら、それを語ると自分の恥の部分をさらすことになり、いい
たくなかったのです。  ──  [新視点からの龍馬論/68]


≪画像および関連情報≫
 ●赤松小三郎「御改正口上書」と坂本龍馬「船中八策」
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  この間、赤松小三郎に関する記事を連続して投稿し、赤松小
  三郎が慶応3年5月に越前福井藩の前藩主で幕府顧問の松平
  春嶽に提出した「御改正之一二端奉申上候口上書(以下、御
  改正口上書)」が、坂本龍馬の「船中八策」よりも早い、日
  本で最初の、選挙による民主的議会政治の建白書であり、も
  っと評価されるべきであることを論じてきた。現在、ネット
  で検索しても、赤松の「御改正口上書」を読むことはできな
  い。そこでこのブログに掲載することにした。出所は『上田
  市史』(下巻、1251〜1253頁)である。赤松直筆の原本は失
  われているが、全文が松平春嶽の政治記録書である『続再夢
  紀事』に転載されているので、この文書の存在は確かのもの
  である。
  http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/0aacd076a50028669d253e6bf8dff12a
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赤松小三郎.jpg

赤松 小三郎
posted by 平野 浩 at 04:16| Comment(1) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
もうひとりの高杉晋作を教えていただいた。
高杉晋作は東行と号したが赤松小三郎はさしずめ、西行先生。
Posted by 東行系 at 2011年01月18日 10:06
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