部──西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀らは強く懸念を表明して
いたのです。もっとも当初彼らは「大政奉還など幕府が受け入れ
るはずがない」と考えており、そのときは土佐藩も討幕に立ち上
がると後藤象二郎がいうので、薩土盟約を結んだのです。
龍馬は日本の国力を弱める幕府との大戦争をやることには一貫
して反対であり、大政奉還の提案はその考え方がベースになって
いたのです。もしその時点で戦争をすると、英仏軍の介入に口実
を与えかねなかったからです。
それに龍馬は、土佐藩が大政奉還の建白書を出せば、慶喜はそ
れを受け入れると確信していたのです。それは永井玄蕃頭からも
慶喜について情報を得ていたからです。それに幕府から見ると、
土佐藩は幕府恩顧の有力大名のひとつであって親幕府であり、そ
れまでの四候会議などでの山内容堂公の発言からもそれははっき
りしていたのです。
それだけに、その土佐藩から建白書が出ると幕府は大きなショ
ックを受けるはずであると龍馬は考えたのです。そして最終的に
「土佐藩の提案ならやむなし」として、大政奉還を受け入れると
予測したのです。しかし、薩摩とはまったく違う予測をしていた
ことになります。
薩摩の予測を大きく裏切り、幕府は大政奉還をあっさりと受け
入れてしまったのです。しかし、このあたりから後藤と龍馬との
情報連絡がうまくいかなくなっていたのです。ちょうどその頃か
ら「坂本龍馬は危険な人物である」──薩摩藩を中心にそういう
声が巻き起こってきたのです。
もちろん幕府が大政奉還を受け入れると同時に出された討幕の
密勅のことなど龍馬は一切知らないのです。そういう変化の裏に
何があるのか。明確な史料はありませんが、EJは学術論文では
ないので、推理も交えて探っていくことにします。
ここでもう一度トーマス・ブレイク・グラバーについて考えて
みる必要があります。幕末の日本は、幕府をバックアップしたフ
ランスのレオン・ロッシュ公使と、薩長両藩の後ろ盾になった英
国のハリー・パークス公使が対立し、最終的には英国が勝利した
のですが、その裏側で働いたのがグラバーです。
グラバーは、外国人として初めて勲二等旭日重光章を授与され
た人物であり、日本の発展に大きく貢献しているのです。このグ
ラバーは後日、次のようにいっています。
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私が日本のため一番役に立ったと思うことは、ハリー・パーク
スと薩摩・長州の間にあった壁をブチ壊してやったということ
です。 ──「阿修羅」より
http://www.asyura2.com/0401/idletalk7/msg/632.html
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グラバーは、自分の腹心として薩摩藩の五代友厚と土佐藩を脱
藩した坂本龍馬を使い、薩長同盟を成立させ、薩長両藩主導で日
本を明治維新に導いた陰の立役者であるといえます。
しかし、その薩長同盟によってグラバーは薩長両藩に大量の武
器や軍艦を売りつけ、巨万の富を手にしたのです。そのため、グ
ラバーは幕末史において次のように位置づけられているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
グラバーは幕末の動乱に乗じた『死の商人』である
―――――――――――――――――――――――――――――
グラバーは最初から「死の商人」たらんとしたわけではないの
です。長崎に上陸したグラバーは、最初は茶葉、生糸、海産物な
どの商品を扱っていたのですが、当時日本において外国人は居留
地以外の行動が制限され、大きな商売ができなかったのです。
ときあたかも日本は幕末の動乱期にあり、そういうときに母国
である英国の武器や艦船を輸入して各藩に売る商売は、危険性は
あるものの、成功したときの利益は莫大なものにある、良い商売
だったのです。まして当時の英国は軍事大国であり、最先端の兵
器や艦船の入手は比較的容易だったのです。
当時日本では尊皇攘夷の嵐が吹き荒れており、攘夷派か公武合
体派のどちらかにつく必要があったのですが、グラバーの本拠地
が長崎であったことから、薩摩との接点ができたのです。そのキ
ーパーソンが五代友厚のです。
グラバーが五代といつ会ったかについては諸説がありますが、
五代友厚が長崎海軍伝習所で学んでいた頃であったとするのが正
しいようです。おそらく安政4年(1857年)前後であったと
思われます。
長崎海軍伝習所は、幕府が海軍士官養成のための教育機関であ
り、幕臣や雄藩藩士から選抜した俊秀に対し、オランダ軍人を教
師として、蘭学(蘭方医学)、航海術などを指導したのです。五
代は、薩摩藩から選抜されて、21歳から23歳までここで学ん
でいますが、その時期に五代はグラバーに会っているのです。
この長崎海軍伝習所は幕府の意向で安政6年(1859年)に
廃止されたので、五代は薩摩に戻ったのですが、一年後に藩命を
受けて、再び長崎のグラバー邸を訪れています。目的は外国船の
調達であり、薩摩藩は2隻の外国船を購入しています。
これを契機に五代は、島津久光にグラバーのことを話し、藩に
留学生派遣の上申書を出したのです。五代の提案はすぐに受け入
れられ、実現することになったのは既に述べた通りです。久光は
兄の島津斉彬を尊敬しており、その斉彬が高く評価していた五代
を信用していたからです。
留学生は16人選抜されたのですが、1人が死亡したので15
名に五代友厚ほか2名と通訳1名の計19人が英国に留学するこ
とになったのです。その留学生派遣に関わる一切の実務を取り仕
切ったのが、グラバーです。このようにして、グラバーは薩摩藩
と親しくなり、やがてグラバーは島津久光と会うようになるので
す。 ── [新視点からの龍馬論/66]
≪画像および関連情報≫
●長崎海軍伝習所について
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黒船来航後、海防体制強化のため西洋式軍艦の輸入などを決
めた江戸幕府は、オランダ商館長の勧めにより幕府海軍の士
官を養成する機関の設立を決めた。オランダ海軍からの教師
派遣などが約束され、ベルス・ライケン以下の第一次教師団
後にヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ以下の
第二次教師団が派遣された。さらに練習艦として蒸気船「観
光丸」の寄贈を受けた。 ──ウィキペディア
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●「長崎海軍伝習所」絵図出典/ウィキペディア
長崎海軍伝習所絵図