(1860年)というと、井伊大老が暗殺された年に当りますが
その同じ年に第2次アヘン戦争──清帝国と英仏連合軍の間の戦
争で英仏連合軍が勝利──が終結しているのです。
アヘン戦争に勝利した英仏両国が次に狙いを定めてきたのは他
ならぬ日本です。当時の幕府の識者も英仏にいいように嬲られた
清国の惨状を知っていたので、十分に警戒していたのです。
英仏両国は、既に日本と通商条約を締結していた米国と同じ条
件の通商条約を締結しています。このとき、英国の目指す目標は
自由貿易と国際金本位制に参加させて、日本を純粋な市場経済に
することにあったのです。
これに対してフランスは別の思惑を持っていたのですが、当面
は英国と同一歩調をとっていたのです。しかし、元治元年(18
64年)にレオン・ロシュが公使として赴任すると、フランスは
英国と距離を取り、幕府内のタカ派と連携して、幕府のバックに
つく体制を執りはじめるのです。その結果、ハト派である勝海舟
は遠ざけられたのです。
一方英国は長州のバックにつき、慶応元年(1865年)に日
本に赴任したパークス公使は薩長両藩を支援する体制を築くので
すが、このあたりのことは既に述べてきた通りです。もちろん、
アーネスト・サトウやグラバーの存在も無視できないのです。
考えてみると、当時の日本はやり方を誤ると、英仏両国によっ
て東西に2分割され、植民地化される危機にあったのです。慶応
2年12月に将軍になった徳川慶喜にフランス公使ロッシュは強
いリーダーの資質を認め、慶喜にいろいろ指導しているのです。
ロッシュ公使は、幕府も藩も解体し、中央集権的な官僚体制を
作り、統一的な強力な軍隊を作ることを提言し、大きな期待を寄
せたのです。龍馬が舌を巻いたように、将軍就任後の慶喜が次々
と改革を断行できたのには、このロッシュ公使のアドバイスが大
きく影響しているのです。
徳川慶喜はこう考えていたのです。大政奉還してもいきなり全
国を治められる人材は自分しかいない。したがって、当面政権は
自分に任せられる。その間に必要な工作を施し、朝廷から大政を
再委任されるようにする──こういう考えです。
実際に大政奉還後、慶喜は朝廷から政権を当面担当するよう命
じられているのです。つまり、この時点で慶喜は当面とはいえ内
大臣に就任しているのです。薩長両藩が一番恐れたのは、こうい
う事態なのです。大政奉還をすると、こういう事態が必ず起きる
──そうなると、新体制の要職は旧幕府勢力で占められ、実質的
に旧体制と変わらなくなるというわけです。ここまではロッシュ
公使の構想であるといえます。ですから、薩長両藩は、どうして
も討幕という形にしなければならなかったのです。
しかし、ロッシュ公使は武力討幕は必ず起こると見ていたフシ
があります。そしてそのときこそフランスが軍事介入するチャン
スと見ていたのです。
ところで、大政奉還が行われた同じ日に出された島津久光・茂
久父子への討幕の官旨と錦旗のその後の経過について触れておき
ます。この官旨に署名しているのは、中御門経之、中山忠能、正
親町三条実愛の3名であり、それ以外にこの官旨の存在を知って
いるのは、岩倉具視しかいないのです。つまり、これは正規のも
のではなく、討幕のための「偽勅」に過ぎなかったのです。
しかし、思いもかけず大政奉還が成立したので、中山忠能は官
旨の実行中止を命じ、中御門経之、中山忠能、正親町三条実愛の
連名による沙汰書が出されているのです。
話は龍馬の暗殺後のことになるのですが、慶応3年(1867
年)11月29日に大久保利通は正親町三条実愛にクーデターの
決行を宣言し、12月1日には大久保は岩倉具視と一緒に中山忠
能を説得しています。
この時点で慶喜は薩摩のクーデター計画を知り、旧幕府勢力は
反クーデターを朝廷に働きかけます。朝廷を中心に薩摩藩と旧幕
府方の激しい工作が行われたのですが、結局朝廷が選んだのが、
薩摩藩だったのです。そして、薩摩、安芸、尾張、越前、土佐の
五藩が御所を固める中で、王政復古の大号令が発せられることに
なったのです。
12月9日夜に「小御所会議」が行われたのです。明治天皇が
出席され、総裁、議定、参与と、クーデターに参加した五藩の重
臣によって会議がもたれたのです。
小御所会議は大荒れに荒れたのです。そして薩摩は、慶喜に対
し、内大臣の辞職と幕領の返上を迫ったのです。これに対し、議
定の山内容堂と参与の岩倉具視が対立して、罵り合うなど会議は
混乱に陥ったのです。
薩摩の狙いとしては、ここで慶喜を挑発し、武力で幕府を潰す
ことが狙いであったのです。王政復古だけでは、既に大政奉還を
している慶喜を討つ名目にはならなかったからです。
しかし、慶喜は挑発には乗らなかったのです。小御所会議を切
り抜けると、慶喜は12月11日に薩摩を討つべしと気勢を上げ
る旧幕府軍五千、会津三千の外出を禁じ、次の日の夜、京都から
大阪城に移ったのです。つまり、討幕の大義名分を与えず、挽回
のチャンスを待ったのです。
そのときの慶喜の思いとしては、ここで事を起こすと、英仏両
国が介入して日本の東西分割が起こりかねない──慶喜はこのこ
とを心配したのです。このあたりがつねに日本というポジション
でものごとを考えてきた慶喜には日本の置かれた現状と英仏米蘭
の列強の動きがよく見えていたのです。
この小御所会議を境にして、もともとクーデターに難色を示し
ていた土佐や越前を中心として他藩もあまりに強引な薩摩に対し
非難が集中したのです。そこで慶喜は間髪を入れず、英仏米蘭伊
独の大使と引見し、日本国の主権は自分にあると宣言し、王政復
古を批判したのです。 ── [新視点からの龍馬論/65]
≪画像および関連情報≫
●小御所会議とは何か
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小御所会議は、江戸時代末期(幕末)の慶応3年12月9日
に京都のの小御所で行われた国政会議。同日に発せられた王
政復古の大号令で、新たに設置された三職(総裁・議定・参
与)からなる最初の会議である。すでに大政奉還していた徳
川慶喜の官職(内大臣)辞職および徳川家領領の削封が決定
され、倒幕派のの計画に沿った決議となったため、王政復古
の大号令と合わせて「王政復古クーデター」と呼ばれること
もある。その一方で、この時期までにしばしば浮上しては頓
挫した、雄藩連合による公儀政体線の一つの到達点という面
も持ち合わせていた。 ──ウィキペディア
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●写真出典:ウィキペディア
レオン・ロッシュ公使