2011年01月11日

●「微妙になっていた後藤と龍馬の仲」(EJ第2972号)

 慶応3年(1867年)10月13日、龍馬は、京都河原町の
運命の近江屋に移っています。奇しくもちょうど次の日、将軍慶
喜は二条城で大政奉還を決めています。ところが、その同じ日に
朝廷より「討幕の密勅」が薩長両藩に下っているのです。
 薩摩藩としてはあくまで幕府は拒否してくるものと考えて、そ
の線で動いていたのです。10月6日、薩摩の大久保利通は岩倉
具視から「錦旗」の作成を命ぜられています。岩倉具視は、大久
保利道、土佐の後藤象二郎、公卿の中御門経之、中山忠能、正親
町三条実愛らと討幕を計画していたのです。「錦旗」とは、天皇
の軍である官軍の旗印であり、これに敵対する勢力は賊軍とみな
されるのです。
 大久保利通は8日に中御門経之と中山忠能に拝謁し、薩長芸三
藩の出兵同盟を示して、討幕の「官旨」の降下を願い出ているの
です。官旨というのは、天皇の命令を伝える公文書ですが、「詔
勅」よりは手続きが簡単なのです。この官旨が将軍慶喜が大政奉
還を上奏した同じ日に朝廷から出されているのです。
 そのとき龍馬は何をしていたのでしょうか。
 実は10月12日に後藤象二郎のもとには幕府は「大政奉還受
託の内意」が伝えられていたのですが、龍馬はそのことを知らな
いので、13日に登城する後藤象二郎に対して重大な決意を知ら
せているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
 御相談遣わされ候建白の儀、万一行われざれば固より必死の御
 覚悟故、御下城これなきときは、海援隊一手をもって大樹(将
 軍)参内の道路に待ち受け、社しょくのため不(倶)戴天の讐
 を報じ、事の成否に論なく、先生に地下に御面会仕り候。
                       ──菊地明著
             『坂本龍馬』より/PHP研究所刊
―――――――――――――――――――――――――――――
 龍馬は非常に激しいことをいっているのです。あなた(後藤象
二郎)が登城して、もし幕府が大政奉還を拒否するようなことが
あれば、あなたのことですから、きっと抗議の切腹をされること
しょう。そのときは、私が海援隊を指揮して将軍慶喜を襲撃し、
その成否にかかわらず、自分も腹を切るつもりである──このよ
うにいっているのです。
 これは龍馬が後藤象二郎に対して「死を覚悟して臨め」とはっ
ぱをかけているといえます。後藤が龍馬を無礼な奴だと考えても
不思議はないといえます。
 しかし、何のことはない。後藤象二郎には12日に幕府の内意
(奉還の受諾)が伝えられていたのです。同じ京都にいて、龍馬
の宿舎まで知っている後藤がそれほど重要なこと(幕府の内意)
をなぜ龍馬に知らせなかったのでしょうか。ちなみに近江屋とい
うのは土佐藩邸の前にあり、5メートルと離れていないのです。
いずれにせよ、その時点で後藤と龍馬の情報交換が不十分なもの
になっていたことは確かなのです。
 これを後藤象二郎の変心と考えると、その裏側には何があるの
でしょうか。
 龍馬暗殺説には「後藤象二郎説」というのがあります。後藤象
二郎が犯人だという説です。もちろん実行犯は別です。その動機
としては、船中八策を含む大政奉還の発案者が実は龍馬であるこ
とが明らかになることであるといわれます。
 NHKの大河ドラマの『龍馬伝』では、船中八策は龍馬の案で
あることを後藤は容堂公に明らかにし、龍馬から直接容堂公に説
明させていますが、史実とは異なります。
 後藤は龍馬の案を下敷きにして内容を一部変更して、容堂公を
はじめ土佐藩幹部には、あくまで発案者は自分であるというスタ
ンスを取っています。ところが大政奉還が実現してしまったので
その発案者が実は龍馬であることがわかってしまうと困る──そ
れが殺害動機であるというのです。
 しかし、これは殺害動機としては非常に弱いと思います。船中
八策を含む大政奉還の提案には、龍馬だけでなく、多くの者がか
かわっており、龍馬だけを殺害しても後藤はそれが自分の案とは
主張出来ないからです。
 それに後藤象二郎はそれほど狭量の人物ではないのです。そう
でなければ、下士で脱藩者の龍馬と組んで、海援隊など作らない
はずです。後藤としては、大政奉還後の土佐藩の対応について、
非常に幅広い人脈を持つ龍馬は余人をもって代えがたい人物であ
ると評価しており、殺害などするはずがないのです。
 しかし、その後藤もけっして逆らえないのが山内容堂公です。
もし、容堂公から「龍馬を殺れ!」といわれたら、断ることはほ
とんど不可能です。主命であり、脱藩を許された以上龍馬も土佐
藩の人間だからです。
 それでは、容堂公は、なぜ龍馬を亡きものにしようとしたので
しょうか。容堂公にとって龍馬など問題にすべき存在でも何でも
ないからです。もし、本当に龍馬が土佐藩のためにならないこと
をやったのなら、武市瑞山に切腹を命じたように、龍馬にも切腹
させれば済むことです。
 しかし、それには罪状が必要です。おそらくそれはないはずで
す。そのとき、龍馬の率いる海援隊と中岡慎太郎の率いる陸援隊
がゴタゴタしていたことは確かですが、これを収めるのは後藤の
役割であり、殺害──偶然2人とも殺害されている──してしま
うほどのことではないのです。
 このように容堂公にも積極的な龍馬殺害動機はないのです。そ
うであるとすると、その本当の動機は何でしょうか。
 確かなことは、山内容堂公も後藤象二郎も龍馬殺害の犯人を熟
知しています。これに関して2人は完全に口を閉ざしていますし
文書の類いは一切残されていないのです。しかし、2人が龍馬暗
殺事件の関与者であることは確かなことです。
            ──  [新視点からの龍馬論/63]


≪画像および関連情報≫
 ●岩倉具視とはどういう人物か/「近代日本人の肖像」より
  ―――――――――――――――――――――――――――
  京都生まれ。公卿、政治家。父は権中納言堀河康親。岩倉具
  慶の養嗣子。安政元年(1854)孝明天皇の侍従となる。5
  年(1858)日米修好通商条約勅許の奏請に対し、阻止をは
  かる。公武合体派として和宮降嫁を推進、「四奸」の一人と
  して尊皇攘夷派から非難され慶応3年(1867)まで幽居。
  以後、討幕へと転回し、同年12月、大久保利通らと王政復
  古のクーデターを画策。新政府において、参与、議定、大納
  言、右大臣等をつとめる。
        http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/23.html
  ―――――――――――――――――――――――――――

岩倉具視.jpg
岩倉 具視
posted by 平野 浩 at 04:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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