2011年01月06日

●「幅広い人脈を持つ龍馬に対する警戒心」(EJ第2970号)

 イカルス号事件から解放された後藤象二郎と龍馬のその後の行
動を追ってみましょう。後藤が上京してみると、京都の雰囲気が
変わっており、武力倒幕派の動きが活発化していたのです。
 後藤は薩摩屋敷に行き、西郷隆盛と会談したのですが、西郷の
態度はすこぶる冷淡であり、慶応3年6月に締結した薩土盟約の
破棄を意味するほど厳しいものであったのです。
 実はこの頃幕府側は、土佐藩から大政奉還の建白書が提出され
ることを情報として掴んでいたフシがあります。作家の楠戸義昭
氏は『歴史街道』12月号(PHP)にこんなエピソードを紹介
しています。京都守護職の松平容保が祇園での親睦会に後藤象二
郎を招き、そのとき同席した幕府若年寄格の永井尚之(玄蕃頭)
は、後藤に建白書を早く提出するよう促したというのです。幕府
としてはその時点で建白書が出れば、それを受け入れるハラは決
まっていたものと思われます。
 薩摩藩としては、幕府が大政奉還の建白書の受け入れを拒否す
ることを想定して、それを口実に武力行使に踏み切るつもりで薩
土盟約を締結したのです。しかし、土佐藩がイカルス号事件に手
こずってタイミングが外れてしまったため、事情が変化し、幕府
がそれを受託する可能性が高まっていたのです。もし、建白書を
幕府が受諾すると、武力行使の大義名分が失われてしまうので、
西郷は不機嫌だったわけです。
 ところで、必ずしも厳密に使われていないのですが、次の言葉
はそれぞれ分けて使う必要があります。
―――――――――――――――――――――――――――――
    倒幕 ・・・・・ 平和裡に幕府を解体させる
    討幕 ・・・・・ 武 力で幕府を消滅させる
    保幕 ・・・・・ あくまで幕権の維持させる
―――――――――――――――――――――――――――――
 「倒幕」とは、基本的には平和裡に幕府を解体させようとする
もので、「大政奉還」はそれを促すものです。土佐藩や坂本龍馬
はこの考え方に立っています。これに対して「討幕」は武力(戦
争)によって幕府を消滅させるもので、薩摩、長州両藩はこの考
え方に立脚しています。
 もうひとつ「討幕」という以上、朝廷による勅許が必要になり
ますが、正確に使い分けられていないのです。もっとも「倒幕」
と「討幕」も厳密に使い分けられておらず、「討幕」といわず、
「武力倒幕」といったりもしているのです。
 長州藩というのは、江戸時代では「討幕」が国是のようになっ
ており、新年には、次のような行事が行われているほどそれは徹
底していたのです。
 新年拝賀の儀において家老が「今年は討幕の機はいかに」と藩
主に伺いを立てるのです。そうすると、藩主は毎年「時期尚早」
と答えるのが慣例になっていたそうです。また、藩士は江戸に足
を向けて寝るということもしていたといわれます。それほど幕府
に不信感を抱いていたわけです。
 「保幕」という言葉もあります。これはあくまで幕府体制を維
持するという考え方であり、佐幕ともいいます。幕末においてこ
れを貫いていた藩には会津藩と桑名藩があります。この中で会津
藩は、陸奥国会津郡にあって現在の福島県西部を治めた藩ですが
幕末の藩主は松平容保、文久2年(1862年)から京都守護職
を務めたのです。この京都守護職の下に見廻組と新選組が置かれ
ており、龍馬の暗殺と深い関係があります。
 さて、龍馬は、倒幕、討幕、保幕のどれに属するかというと、
「倒幕」ということになります。武力はできる限り使いたくない
──これが龍馬の考え方ですが、それは、このような時期に日本
人同士で大規模な戦争をやって国力を弱めると、英国やフランス
などの列強の侵略を許すことになることを恐れたのです。
 しかし、龍馬は必ずしも平和主義者ではないのです。和戦両様
──これが龍馬のスタンスです。その証拠に、イカルス号事件で
大政奉還の建白書提出のタイミングが遅れたことで、討幕機運が
高まったときは、土佐藩の武装を強化するため、武器の買い付け
を行っているのです。龍馬は、陸奥宗光に命じてハットマン商会
から小銃1300挺を購入させています。まさに和戦両様の構え
です。慶応3年(1867年)9月14日のことです。
 ここまで見てきたように、龍馬は自分が会いたいと思う人物に
はどんなに遠いところでも出かけて行き、意見を交換して相互に
信頼を深め、知己を増やしています。土佐藩は当然のこととして
薩長両藩のキーパーソン──西郷隆盛、小松帯刀、大久保利道、
五代友厚、木戸孝允、伊藤博文などに加えて、旧幕府方の勝海舟
大久保一翁、松平春嶽といった大物とも、いきなり出かけて行っ
て会える存在になっていたのです。しかも、英国という非常に強
力な後ろ盾も有しているのです。当時これほどの幅広い人脈を持
つ人物はいなかったのです。非常に役に立つ人物なのですが、敵
に回すと危険な存在でもあったわけです。
 一方において龍馬は、海援隊結成後は土佐藩から脱藩の罪は許
されていたものの、もともと藩という枠にとらわれない自由な発
言や行動をとっていたので、それを藩側の人間から見ると、格下
なのに勝手なことをする人物という怒りも買っていたのです。
 慶応3年10月3日、大政奉還の建白書を提出され、14日に
二条城において大政奉還が行われています。しかし、その頃龍馬
は幕府に代わる新政府をどうするかに思いを馳せており、近江屋
に小沢庄次(尾崎三良)、中島作太郎、岡内俊太郎が集めて、次
の名称で呼ばれる新政府の職制案を協議しているのです。
―――――――――――――――――――――――――――――
          「新官制擬定書」
―――――――――――――――――――――――――――――
 この文書は完成すると、土佐藩の後藤象二郎、薩摩藩の西郷隆
盛らに届けられたのですが、その内容は衝撃的であり、大きな波
紋を呼ぶことになります。──  [新視点からの龍馬論/61]


≪画像および関連情報≫
 ●京都守護職の松平容保について
  ―――――――――――――――――――――――――――
  会津藩主。文久2年(1862年9月24日)京都守護職に
  就任する。はじめ容保や家老の西郷頼母ら家臣は、京都守護
  職就任反対の姿勢を取った。しかし政事総裁職・松平春嶽が
  会津藩祖・保科正之が記した『会津家訓十五箇条』の第一条
  「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」との家訓を
  引き合いに出すと、押し切られる形で就任を決意。最後まで
  この遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として戦い、江戸幕府
  と運命を共にした。         ──ウィキペディア
  ―――――――――――――――――――――――――――

松平容保/京都守護職.jpg
松平 容保/京都守護職
posted by 平野 浩 at 04:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 新視点からの龍馬論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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