年(1867年)9月10日に事実上決着しています。全権をま
かされたアーネスト・サトウにとっては、納得のいかないもので
あったのですが、状況証拠のみであり、長崎奉行所は罪に問うこ
とはできないという決定を下したのです。しかし、その経緯につ
いては省略することにします。
この事件の犯人は実は海援隊ではなく、金子才吉という福岡藩
士だったことが後で判明しています。そのとき、福岡藩士数名が
長崎に留学しており、その中に金子才吉がいたのです。
7月6日夜──当時はこの日が七夕だったといわれる──彼ら
は宿舎を出て丸山遊郭に向かったのですが、金子才吉だけ少し遅
れて宿舎を出たのです。
丸山遊郭の寄合町引田屋の門先に、英国軍艦イカルス号の水夫
2人が酔いつぶれ、道に寝ていたのですが、店ではどうすること
もできず、明かりをともして見守っていたのです。そのとき、金
子才吉がやってきて、何を思ったか水兵2人に斬りかかり、殺害
して逃走したのです。その金子の服装が「白木綿筒袖、襠高袴」
だったというわけです。
しかし、金子は8日になって水ノ浦の屯営所(福岡藩の兵舎)
を訪れ、藩の重役に犯人は自分であることを告白し、外交問題に
なって藩に迷惑をかけないよう割腹自殺してしまったのです。
これについての詳細は、「ヤフージャパン知恵袋」に出ている
ので参照していただきたいと思います。
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≪「ヤフージャパン知恵袋」≫
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1149642631
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当時英米仏蘭の列強は、後進国の体制には重大な関心を持って
おり、体制転覆の動きが少しでもあれば、その反権力に力を貸し
体制転覆を支援する動きを加速させていたのです。日本などはそ
の格好のターゲットになっていたわけです。なぜなら、もし支援
した反権力が体制転覆に成功すると、列強には武器売買などの交
易などによって莫大な利益がもたらされるからです。
英米仏蘭4ヶ国の中で一番熱心だったのは英国です。そのやり
方は巧妙であり、その体制転覆のスキームは精緻をきわめていた
のです。その先兵というべき人物がグラバーです。
英国本国の外務省は、武力による圧力を全面的に禁じているの
です。したがって、たとえ威嚇にせよ軍艦などを使うにはそれな
りの明確な理由が必要です。つまり、日本側が英国に対して敵対
行為をしてくるのを我慢強く待ち、それを理由にして英国として
の威嚇行為を行うのです。
既出の加治将一氏は、日本側が英国に対して行った敵対行為と
して次の3つを上げています。
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1.1863年 「薩英戦争」
2.1864年 「下関攻撃」
3.1867年 「イカルス号事件」
──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
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「薩英戦争」の引き金になったのは、文久2年(1862年)
8月21日に起こった生麦事件です。武蔵国生麦村付近において
薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬の英国人を供回り
の藩士が殺傷した事件です。
この問題をめぐる賠償問題がこじれて薩英戦争が起こり、その
裏側で五代友厚らが活躍した話は既に述べた通りです。しかし、
この戦争によって、英国と薩摩藩との関係は相互理解が深まり、
親密な関係になったのです。あくまで倒幕を目指す英国から見る
と、有力な雄藩である薩摩藩を落としたことになるのです。
「下関攻撃」に関しては、長州藩が英米仏蘭の船を砲撃したの
ですから、これほど明白な敵対行為はありません。そこで英米仏
蘭4ヶ国が連合艦隊を編成し、下関を砲撃して力で長州藩を屈服
させたのです。しかし、実力の差を知った長州藩は攘夷の無謀さ
を身をもって知り、英国と以後連携を図ることになります。英国
はこのようにして長州藩をも落としたのです。
それでは「イカルス号事件」は、どういうメリットを英国側に
もたらしたのでしょうか。この事件の結末は英国にとって、犯人
を逮捕できないという不本意な結果に終っています。しかし、加
治将一氏によると、パークス公使の土佐藩訪問のさい、事件の処
理を託されたサトウが山内容堂公に会っているという事実を自著
で明らかにしています。
パークス公使がサトウと一緒に須崎港に入ったのは慶応3年8
月6日のことです。8日にバジリスク船内での会議に後藤が参加
しています。会談は短時間で終り、後の談判は長崎で続けること
にして、パークス公使は須崎港を離れ、9日には兵庫に戻ってい
るのです。わざわざ土佐藩に乗り込みながら、本気で事件の決着
をつける気はパークス公使にはなかったようです。
しかし、土佐藩に行く意義はあったのです。その証拠に幕府の
平山らが9日に長崎に向かったのに対し、龍馬の潜む「夕顔丸」
に移ったサトウが須崎を出航したのは12日なのです。つまり、
そこに3日間の空白があるのです。
加治氏はその3日間の間にサトウは後藤の計らいで容堂公に面
会しているというのです。そこで何が話し合われたかはわかりま
せんが、後藤の推す大政奉還路線について意見交換が行われたこ
とは確かであると思われます。
容堂公はかねてから英国がどう出るかを懸念しており、後藤に
対し、それを確かめるよう求めていたといわれます。そこで後藤
は、容堂公に直接サトウを会わせることによって、その不安を払
拭しようとしたのです。つまり、イカルス号事件の究明などどう
でもよかったのです。 ── [新視点からの龍馬論/60]
≪画像および関連情報≫
●山内容堂と後藤象二郎との対話
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「倒幕に立ち上がれば、英国は土佐に味方します」
後藤が容堂ににじり寄る。
「イギリスを信用できるか〜」
容堂が訝しげに開く。
「おまえがイギリスを動かせるというのなら、一度連れてき
てもらいたいものだ。そうしたら、信じょう」
「いずれお連れします」
──加治将一著、『あやつられた龍馬』/祥伝社刊
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●写真出典/ウィキペディア
後藤象二郎/土佐藩